増島城 所在地 岐阜県飛騨市
JR飛騨古川駅南東340m
区分 平城
最終訪問日 2017/5/20
増島城説明板と石垣 飛騨を統一した姉小路頼綱が、秀吉の家臣金森長近に天正13年(1585)に討伐された後、古川城に入った長近の養子可重が翌年に古川盆地支配の為に築いた近世平城。
 築城後、可重が城主となり、長近が慶長13年(1608)に没すると、同年かその前年に可重は高山城へと移り、増島城には可重の嫡男重近が入った。このように、金森家では増島城は世継ぎが入城する城となっていたようだが、重近は大坂の役の際に徳川方に味方する父を批判して廃嫡されてしまい、翌20年(1615)の可重没後は三男重頼が跡を継いでいる。ただ、重近は父や祖父と同じく茶の湯に優れ、その号から採った宗和流の始祖として名を残し、藩を継いだ重頼も、藩政に力を注いで名君としての誉れ高く、可重の子はどちらも優秀であった。
野面積の石垣が残る天守台南東面 可重が没したその2ヶ月後、改元されて元和となり、元和偃武として一国一城令が出されると、増島城は領内の同じ支城である萩原諏訪城や東町城と共に旅館と名を変え、古川旅館の名称で城は公称ではなくなりつつも、維持が図られている。その後、飛騨の資源支配を目的としたのか、元禄5年(1592)に飛騨一国が天領となって金森氏が出羽国上山へ移された為、同8年(1695)に高山城や萩原諏訪城と共に破却された。ただ、石垣などを見ると、高山城ほど徹底した破却ではなかったようである。
 城は、飛騨で唯一という平城で、宮川へと注ぐ荒城川が合流点の手前でうねった場所にあり、南西側をこの荒城川で守っていたようだ。構造としては、北西から南東へ方形の郭が並ぶ連郭式の城で、西から2番目の本丸が最も大きく、最も西の郭は本丸に近い大きさ、本丸東側の二ノ丸は本丸の半分程度の大きさである。二ノ丸の東にも東ノ丸という郭が続くのだが、この郭は非常に長細く、動線制御の目的が強い郭かのようだ。また、これらの郭は、全体が幅広の水堀で囲われており、いかにも近世平城という縄張の城であった。平地が少ない飛騨では、かなり貴重な城である。
天守台にある御蔵稲荷社と水堀 現在の城跡は、本丸から二ノ丸にかけての城域が古川小学校の跡地となっており、その一角で天守台近辺が御蔵稲荷神社境内となって残っている。特に、この神社の石垣と、その北東面の水堀は、いかにも城といった趣があって素晴らしい。残されている遺構から見ても、説明板にあるように近世平城らしい方形、石垣造の城というのはよく解るのだが、石垣自体は、後世に見られる谷積みの部分が多く、神社を遷座する際か石垣を積み直した際に再構築された部分がほとんどのようである。往時の石垣は、南東側の部分が現存のものと思われ、この部分はかなり見事な野面積で、城を散策する際は、必ず押さえておきたい部分だ。全体としては遺構は多くないのだが、天守台と水堀という、城の主要な一角が現代の狭い範囲に凝縮されたような、そんな印象を持つ城である。