黒野城 所在地 岐阜県岐阜市
岐阜大学西1.2km
区分 平城
最終訪問日 2002/11/13
黒野城址碑と土塁 この城は、文禄3年(1594)に甲斐より入封した、加藤貞泰によって築城された。
 貞泰の父光泰は、最初斎藤氏に仕えていたが、その滅亡後は秀吉に仕え、丹波亀山城や近江高島城、大垣城などの城主を務めた。そして、一旦は知行を召し上げられるものの、後に佐和山城主を経て甲斐府中24万石を領したのだが、朝鮮出兵中に没してしまい、跡を継いだ嫡子光貞はまだ幼い為、4万石に減封されてこの地に移されたという。従って、実際に黒野城築城の陣頭指揮は、貞泰ではなく家臣の誰かが執ったものと思われる。
 その後、貞泰は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に付いて領地を安堵され、同15年(1610)には米子6万石へ転封となり、城は黒野藩と共に廃されたので、城としての存在期間は非常に短かかった。
 現在は黒野古城公園として、本丸とそれを取り巻く内堀が残されており、当時の姿を良く留めている。本丸は、高さ約5.4mの土塁に囲まれ、西南隅のみが大手口として口を空けており、そこには城門の礎石が残っているらしいのだが、礎石はよく判らなかった。形はほぼ100m四方の正方形で、東南隅と西北隅の土塁上には隅櫓があったと思われる空間がある。この城自体は、前方後円墳を利用して築かれたらしいのだが、散策した限りではどのように利用したか皆目見当がつかず、また、この本丸以外がどうであったかは、惣門口、二之丸、徳田屋敷といった城の痕跡を示す地名を頼りに想像するしかない。
 公園は県道91号線のすぐ北にあるが、工場に隠れて道からは見えないので、見つけるのに時間がかかった。周辺の道が細く、駐車スペースもないため、徒歩で行くのが無難と思われる。
大手門から本丸