北方城 所在地 岐阜県北方町
名古屋鉄道北方東口駅南150m
区分 平城
最終訪問日 2002/11/13
住宅地に残る北方城址碑 西美濃三人衆のひとりに数えられた戦国時代の武将安藤守就の居城。
 安藤氏の出自は明確ではないが、藤原秀郷の流れである伊賀氏の出とされる。伊賀氏は、鎌倉時代初期の朝光の時に伊賀守の官名から名乗りを変えた家で、朝光は稲葉山城を最初に築城した二階堂行政と繋がりがあったともいわれている。これが正しいならば、相当古くから美濃に基盤を持っていたということになる。
 北方城を築城したのは、守就の祖父か曾祖父とされる伊賀光就という。伊賀氏は、その名の元である伊賀守を代々称していたといい、守就も伊賀守を名乗っているが、名字を安藤に変えたのは守就からともいわれる。だが、守就自身については、父親の名が複数伝わっているほか、大野郡から移ってきたという説もあり、西美濃の実力者であった割に輪郭にあいまいな部分が多い。
 ともかく、守就は最初、土岐氏に仕えていたようだが、斉藤道三が守護の土岐頼芸を追放した後は道三に仕え、弘治2年(1556)の長良川の合戦で道三の子とされる義龍が道三を破ると義龍に仕えた。しかし、その子龍興とは折り合いが悪かったようで、娘婿の竹中半兵衛重治が龍興への諫言の意を込めて少人数で稲葉山城を乗っ取った際には、これを支援したという。その後、永禄10年(1567)の信長の美濃侵攻に際して信長に味方し、以降は美濃衆として信長の天下経略に参加したが、天正8年(1580)に守就の嫡子尚就が甲斐の武田氏に通じたとして信長の勘気を受け、蟄居した。
 その2年後の本能寺の変の際、混乱に乗じて守就ら安藤一族は北方城で挙兵したが、稲葉一鉄良通の攻撃を受けて落城し、守就・尚就父子以下一族のほとんどが討死、もしくは自害したという。この時、守就の弟郷氏も討死しているが、その子可氏は落ち延び、郷氏の室が山内一豊の姉だったことから一豊に仕えて安藤の血を残した。可氏は一族衆として山内の名字を与えられ、後に土佐国宿毛6千8百石を領し、維新に至っている。
 城は長良川と揖斐川、その支流根尾川に挟まれた平地にあり、石垣の無い土居城の平城で、中世の居館を拡張したものだったようだ。その広さは3町四方の方形で、北側の真ん中90m×120mの領域が本丸であったらしい。また、城自体は守就が蟄居した時点で空城になった可能性があり、安藤氏滅亡時の落城と荒廃で廃城になったと思われる。
 現在の城跡は住宅地と田園の中に埋没しており、見つけるのに非常に苦労した。名鉄揖斐線北方東口駅を南に越えてすぐ西に折れたところだが、道が狭いので徒歩で散策したほうが無難だろう。跡地には遺構が見当たらないが、土佐藩に仕えた可氏の子孫が明治政府に対して挙げた功績によって建てられたという石碑と、僅かに立っている案内板だけが、当時の様子を伝えている。