木越城 所在地 岐阜県郡上八幡市
東海北陸道ぎふ大和I.C.東南1.8km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/19
木越城本丸南側の朽ちかけた城址碑 近世遠藤氏発祥の城。遠藤氏の系図によれば、篠脇城主であった東常縁の庶子盛胤が築いたとされる。
 美濃の遠藤氏の来歴を探っていくと、東氏の庶流ではなく、その家臣として登場する武将が多い。東氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏良文流の名門千葉氏の分かれで、頼朝に味方した常胤の子胤頼を祖とするが、胤頼は源平の合戦が始まる直前まで在京しており、北面の武士であった遠藤持遠の娘を室として迎えたという。つまり、遠藤氏は血族ではなく姻族で、時代が下った史料にも、東氏家臣の遠藤氏が幾人も登場しており、これらは持遠の流れかと思われる。盛胤が遠藤姓を名乗っているのは、母が遠藤氏の出か何かで、東氏から遠藤氏の名跡を継いだと考えるのが妥当な所だろうか。ただ、一時史料には、盛胤の名は見えない。
 一方、初代盛胤の父とされる常縁は、8代将軍義政の側近を務め、幕府の命で宗家にあたる下総千葉家の内紛の鎮定に当たったという名将であった。その鎮定による留守中に、土岐家臣斎藤妙椿に居城篠脇城を奪われたが、その事を嘆いた常縁の短歌が人伝で妙椿に伝わって城を返して貰ったという逸話が残っており、東氏歴代当主でも、教養深く有名な英主である。この事に、前述の一次史料に盛胤の名が見えないこと、更に後に遠藤氏が東氏を打倒したことを合わせて考えると、東氏の有力家臣の一家が主家の領地を奪った事に対する正当性を、主家の有名武将の血統に仮冒することによって得ようとしたという推理が成り立つ。実際、下克上を成した頃の話は筋が解りにくく、史実に無理矢理合わせたという印象は否めない。
木越城本丸虎口付近の石垣の痕跡 このほか、美濃明細記には、盛胤と同時期に、同名の人物が室町時代に関東から来た遠藤盛隆の子として記されており、こちらが正しい可能性もある。いずれにしても、系図に関してはすでに江戸時代から疑問の声はあったようで、同時代に諸大名の間で家系図の創作が盛んに行われたことや、東氏の系図にも複数の説があることを考えると、東氏とは累代に渡って姻戚関係があったが、庶流ではなかったというのが妥当なところだろうか。
 出自はともかく、盛胤が系図通り盛数の祖父とすれば、木越城は15世紀から16世紀初頭の築城となり、それ以降、遠藤氏が累代に渡って居城したと伝わる。戦国中期になると、東氏の勢力は衰え、盛胤の孫である胤縁・盛数兄弟が各地で功を挙げて主家を支えたが、主家当主常慶の子常堯は、胤縁の娘を室に迎える事を胤縁に拒否され、永禄2年(1559)8月1日に胤縁を暗殺してしまう。これに対し、盛数は14日に挙兵して弔い合戦を仕掛け、八幡山に陣して赤谷山城を攻撃し、常慶を自害に追い込み、常堯を追い落とした。戦後、盛数は八幡山に八幡城を築き、累代の居城木越城には胤縁の子胤俊が入り、郡上郡は盛数と胤俊で分割され、両家は両遠藤と呼ばれることとなる。
木越城南側中腹の郭群 その後、永禄7年(1564)に胤俊が八幡城を奪うことはあったが、その返還後は両家共に斎藤氏、その滅亡後は織田氏に属した。元亀元年(1570)に近江国における志賀の陣で胤俊が没すると、弟胤基が継ぎ、武田信玄上洛の際は武田氏に通じたとされるものの、その後も織田家臣として領地を維持している。天正10年(1582)の本能寺の変後は美濃を領した織田信孝に属し、秀吉軍と戦うなどしているが、信孝が滅んだ後は秀吉に属し、小牧長久手の戦いでも秀吉軍の三河急襲部隊に属していた。しかし、天正16年(1588)に過去の行動などから減知移封を命じられ、それに伴って城も廃城となった。
 城へは、国道156号線とは反対側の長良川右岸を走る県道61号線から、清竜旅館や金松館という料理旅館がある一角へ向かう細い道に入り、100mほど進んだ金松館の駐車場から登山道が出ている。登山道入口付近には、山内一豊室の説明板と共に、有り難いことに休憩スペースが設けられていた。
 登山道を登って行くと、中腹あたりに3段の削平地が確認でき、石垣の跡が確認できるほか、段郭としてはやや規模が大きく、相応の防御力が期待された区画だったと思われる。そこを過ぎてしばらく行くと、主郭部へ入って行くのだが、この付近には山中としては不自然な河原の丸石が多く見られ、虎口のような地形もあり、往時には要所に石垣が築かれていたのだろう。頂上部の本丸は藪となっていたが、長い楕円形で東側に1段、西側に2段の付随する削平地を持ち、西側は更に高低差を持った4段ほど段郭が連なっていた。全体的に見ると、中世的な構造は色濃く残っているが、近世の入口まで存在した城だけに、石垣の痕跡など、近世山城の特徴を僅かながら見ることができる城である。