革手城 所在地 岐阜県岐阜市
JR岐阜駅南東1.3km済美高校付近
区分 平城
最終訪問日 2012/5/12
革手城址碑と説明版 城址碑は川手城としている 美濃守護を累代に渡って務めた土岐氏の居城。川手城とも書く。
 土岐氏は、現在でも土岐という地名があるように、美濃国土岐地方に興った武士団である。その祖は、ライコウさんとも呼ばれる摂津多田源氏の源頼光で、頼光とその子頼国が美濃守を務めたことが足掛かりとなり、孫国房の頃には既に美濃で合戦を起こせるほどの地盤を持ち、その子光国、孫光信も美濃源氏の勢力扶養に務めた。光信の子光基は、保元元年(1156)の保元の乱で大功があったといい、その弟光長は平氏政権下で官職を得ていたことが史料に見え、この頃には土岐一党の武士団も成立していたはずだが、兄弟自体は活動歴からほとんどを京で過ごしていたようだ。光長は、後に平氏に対して叛乱を起こして敗れ、源義仲の軍に味方したが、義仲と後白河上皇が対立すると上皇側に与して討死した為、その基盤は子の光衡に引き継がれ、光衡が平家滅亡後に鎌倉幕府の御家人となって本格的に土岐に土着した。このことから、土岐氏の祖を光衡とすることも多い。
 鎌倉時代の土岐氏は、庶流を美濃国内各地に輩出して土岐一揆と呼ばれる有力武士団を形成し、勢力を拡大していった。また、北条氏と婚姻を結ぶなど、幕府内でも有力な存在であったようだ。ただ、美濃守護に任ぜられていたとする話があるが、これはどうも信頼に欠ける説らしい。
 鎌倉時代末期、後醍醐天皇が自身の思想から倒幕を企て、元亨4年(1324)の正中の変や元弘元年(1331)の元弘の乱を経て同3年(1333)に幕府を滅ぼすのだが、正中の変では土岐一党が深く関わり、土岐頼兼や一族の多治見国長が幕府によって討たれている。また、太平記では土岐頼員が妻に漏らした事から露見したとしているほか、惣領だった頼貞も疑いを受けていたらしい。だが、頼貞は処罰を免れ、後に鎌倉幕府倒幕に功を挙げ、建武政権下で美濃守護に任命された。その後、尊氏が建武政権に叛旗を翻すとこれに従い、南北朝時代も北朝方の美濃守護として活動し、嫡男頼清の早世により守護職は六男頼遠に受け継がれる。しかし、頼遠は、婆沙羅大名と異名を取るほど軍略に優れていたが、自らの功に奢り、光厳上皇に狼藉を働いたことから、相続後僅か3年で処刑されてしまう。それでも、頼遠の多大な功績が考慮されたのか、土岐一揆の軍事力が必要とされたのか、頼清の遺児頼康への家督相続は許され、この頼康が文和2年(1353)6月に長森城から革手城へと本拠を移し、以降はこの城が守護所となった。
 土岐氏の全盛はこの頼康の頃で、尾張と伊勢の守護にも就き、美濃では弟達を各地に配して土岐一揆の結束を固め、中央でも康暦元年(1379)の康暦の政変に加担するなどしている。だが、大きくなりすぎた勢力は守護大名の勢力削減を目指す将軍義満とは相容れず、頼康の跡を継いだ甥康行の時に、細川頼之や山名氏、大内氏などと同様に挑発を受け、叛乱を起こして敗れてしまう。その結果、尾張と伊勢の守護を剥奪され、美濃守護には頼康の末弟頼忠が就き、以降は頼忠の子孫が美濃守護を継いだ。ちなみに、康行は後に赦されて伊勢北半国守護となり、子孫は北伊勢を継承している。
 頼忠系の土岐氏は西池田家と呼ばれるが、嫡流ではない上に康行の叛乱時に幕府側に付いたことから土岐一揆の支持を得にくく、国内の統治には苦労したようだ。その為、守護代には一族ではない富益氏や長江氏などを起用し、頼忠の子頼益の時には有力豪族の斎藤氏を被官化して登用している。だが、頼益の子持益の頃には斎藤氏の力が増し、斎藤利永が養子成頼を嗣子に擁立して持益を隠居させるなど、土岐氏は次第に傀儡化していった。しかし、その斎藤氏も利永やその弟妙椿の在世中は強勢であったが、利永の子である利藤と妙純(利国)が対立し、混沌の度合いを深めて行く。そのような中、成頼が嫡子政房を廃して末子元頼を立てようとしたことから、利藤と妙純の対立、妙純とその家臣石丸利光の対立、そしてこれら中心人物と婚姻関係のある織田氏や朝倉氏、六角氏、京極氏ら隣国の大名を巻き込んで船田合戦と呼ばれる戦いが起こる。
 船田合戦は、明応4年(1494)末に利光による妙純暗殺未遂があり、一旦は和睦したものの翌年3月に開戦し、城のすぐ南の正法寺や城田寺城と戦場を変えながら1年続き、元頼、利藤、利光方が敗北して終結したが、この過程で、前述の正法寺を始め、妙純が居城した加納城や利光が居城した船田城など、革手城の近傍が戦場となった為、城は3日3晩燃え続けた戦火によって灰燼に帰したという。戦後に城は再興されたが、当主となった政房は斎藤氏の台頭もあって永正6年(1509)に福光館へ拠点を移しており、これには焼失による荒廃の影響もあったのかもしれない。
 その後、土岐家は政房の子である頼武と頼芸の時に再び家督争いがあり、その過程で守護代斎藤氏、小守護代で斎藤庶流の長井氏を圧倒した長井新左衛門、規秀父子が台頭し、土岐家は全くの傀儡となっていく。そして、長井氏から斎藤氏を継いだ規秀こと斎藤道三は、斎藤氏の本拠だった加納城と共に川手城も保有していたようで、享禄3年(1530)の稲葉山城への本格的な拠点移転に伴い、革手城も廃城になった。ちなみに、かつての道三の所伝では、大永7年(1527)に革手城を急襲して頼武を越前に追った事を始め一貫して革手城が守護所となっているが、最近の研究では、守護所は福光館から枝広館を経て大桑城へ移ったとされ、革手城に戻ることはなかったとしている。
 革手城は、当時の木曽川である境川と荒田川に囲まれた要害の地に築かれたが、平時の居館という性格が強い城だったようだ。城地には源氏の守護である八幡神社を始めとした寺社を建立し、周辺には重臣の屋敷となる城もあった。だがその性格が幸いし、革手城下の全盛期である南北朝時代と応仁の乱の頃は、西の山口と共に都の戦乱を逃れた人々が移り住み、華やかな都文化が花開いていたという。
 城跡は、江戸時代の岐阜の首城加納城のすぐ東南にあり、現在は済美高校の敷地となっている。もともと居館形式の平城であったことや、加納城築城の際に資材が持ち出されたことから、江戸時代には遺構が既に少なかったと思われ、更に跡地に済美高校が建設されたことによって、現在では遺構はほとんど見られない。城の証として残るのは、高校を横切っている道の道沿いに設けられた小さな公園にある城址碑で、そこに説明板もあった。栄華を誇った城としては寂しい限りなのだが、信長の治世に川手が一度衰退していることを思えば、加納城下となったことは町としては良かったのかもしれない。