加賀野城 所在地 岐阜県大垣市
樽見鉄道東大垣駅西900m
区分 平城
最終訪問日 2012/5/12
加賀野八幡神社の鳥居の横に建つ加賀野城址碑と後藤祐乗誕生の地の碑 文保元年(1317)に後藤基直が築城したとされ、以降は後藤氏累代の居城であった。後藤氏の出自は詳らかではないが、美濃守護代斎藤氏と同じく藤原利仁の流れで、斎藤伊博の子後藤公則から派生した後藤氏の後裔ではないだろうか。この系統には肥前後藤氏や播磨後藤氏、美作後藤氏がいるが、播磨と美作の系統は通字として基の字が使われており、基直という諱から考えると、こちらの系統に近い後藤氏という推測が成り立つ。このことを踏まえて後藤氏の系図を眺めてみると、12世紀末から13世紀初頭にかけて検非違使の職にあったという後藤基秀の子に、赤松円心則村と共闘して播磨後藤氏の祖となった基明(基秋)がおり、その弟として基直という名が見える。築城年代が基秀や基明の活躍年代とも合っており、もしこれが加賀野城を築城したという基直と同一人物ならば、播磨後藤氏と近いどころの話ではないのだが、如何せん基直の事跡が不明なだけに確認しようがない。
 室町時代の美濃は、鎌倉時代に土岐地方の有力な御家人だった土岐氏が台頭し、守護職に就くのだが、基直は土岐氏に仕えていたとされ、世安荘周辺を領しつつ子孫も土岐氏に従って南北朝時代を乗り越えたようだ。
 金工師として有名な後藤祐乗は、この加賀野城の後藤氏の一門だったようで、城址碑と共に後藤祐乗誕生の地という碑が建っている。祐乗は、この加賀野城で生まれ、成人してから京に出て将軍義政に仕え、讒言で入牢した際に小刀で神輿船と猿を彫ったところ、その精巧さに感服した義政に赦されて金工師になったという。ただ、義政に仕える前の話としてこれとは別に、土岐頼益が守護であった応永年間(1394-1428)に再発した土岐家中の内訌の余波で父の代に流浪し、祐乗の時に京に出て将軍義政に仕えたという話も伝わる。これに従えば加賀野城は出生地でもないということになるのだが、この辺りの事跡はよく分からない。
 時代は下り、戦国時代の後藤氏の当主高次は、斎藤道三を弘治2年(1556)の長良川の戦いで敗死に追い込んだ道三の子義龍に仕え、この加賀野城には家臣の日比大三郎をして守らせていた。だが、大垣を治めていた氏家卜全直元の家臣で三塚城主だった種田信濃守が永禄4年(1561)に城を攻め、高次以下家臣らは防戦したものの、落城してしまう。これにより、高次は自刃して果て、代々続いた在地豪族としての後藤氏は滅んだ。だが、高次の子直次はなんとか尾張に逃れ、後に信長に仕えたという。
 この永禄4年という年は、美濃国にとって出来事が多い年で、うまく美濃を纏め上げていた義龍が急死した年であり、斎藤家と織田家の間で森部の戦いが起こった年でもある。なぜ斎藤家臣同士の戦いが発生したのかという事情はよく分からないのだが、義龍の跡を継いだ龍興と折り合いが悪かったという卜全が離反の動きを見せたのか、それとも信長の父信秀が大垣周辺を支配していた時期もあることから高次と織田氏との間に誼があり、高次が織田家の侵攻に呼応した、という辺りが理由としては考え易いところだろうか。高次の子直次が尾張に逃れて後に信長に仕えていることを考えると、少なくとも織田氏と何らかの繋がりがあったということは言えそうである。
 上記の落城以降、城の名は史料に見えず、どうなったのかは分からないが、落城を機に廃城となった可能性が高い。現在の城跡は加賀野八幡神社の境内となっており、境内が城の本丸跡であろうというのは分かるのだが、城がどの程度の規模や構造を持っていたかというのは現地から想像できず、また、説明板の類も無いので、全く分からない状態である。唯一、神社を囲っている水堀状の小川が恐らく往時の水堀をそのまま使っていると思われ、遺構としてはそれが城の姿を想像させるぐらいだろうか。
名泉として有名な自噴する井戸水 城跡に建つ加賀野八幡神社は、世安荘の総社として加賀野一帯の尊崇を受け、安産の神様として祀られているが、最近は井戸水が名水として有名で、遠く名古屋から水を汲みに来る人もいるらしい。この自噴する井戸は明治7年に掘られたもので、平成の名水百選に選ばれ、その豊富な水量を利用して加賀野名水公園が造られている。訪れた時は偶然にも水を汲んでいる人はおらず、水を味わった上に遠慮なく顔も洗わせてもらったが、出発間際に数台の車が相次いでやってきて急に慌しくなり、やっぱり人気の名水というのを実感した。