東町城 所在地 岐阜県飛騨市
飛騨市役所北東14.6km神岡中学校北西側
区分 平山城・崖城
最終訪問日 2017/5/20
東町城説明板 地図上には神岡城とあるが、それは模擬天守の名で、当時の城名ではない。往時は東町城や沖野城、野尻城と呼ばれていたようだが、現地案内板には東町城の名で記されていた。
 築城は、永禄7年(1564)という。当時、高原一体の領主であった江馬氏は、武田氏を後ろ盾としていたのだが、武田氏には、敵対する上杉氏への戦略の中で、信濃越後間の主戦場とは別にその裏道として、飛騨経由で上杉領の越中に揺さぶりを掛ける構想があった。この為、武田氏は飛騨に対する統制を強め、元々親武田であった江馬氏にも人質を要求し、重臣山県昌景を派遣したのである。この時、昌景の命で江馬氏が築いたのが東町城であった。
 この後、江馬氏は武田軍に従って同年中に高山盆地まで侵攻し、姉小路氏を降して三仏寺領の割譲を受け、後の武田軍の越中侵攻の際にも越中で所領を得るなどしている。武田氏の飛騨政策は、中世的な半独立領主の盟主という関係を脱却する明確な領国化政策なのだが、家臣化した江馬氏にも十分な利点があったと言えるだろう。ただ、武田氏の他の国での政策を見ると、有力な地方には郡代を置き、武田氏が整備した城に城代を置いている場合が多いが、この東町城は武田氏の命で整備されたものの、そのような駐屯する重臣が史料に見えない。そういう意味では、信濃や上野、駿河よりは重要視されていなかった代わりに、領国化がそこまで徹底されず、独立的な空気は残っていたのではないだろうか。
東町城に残る空堀 このような空気が表面化したのが元亀4年(1573)の武田信玄の没後で、当主の江馬時盛と、その子とも江馬一門ともいう親上杉派の輝盛が対立し、同年か、天正6年(1578)に輝盛が時盛を謀殺して当主に就いた。そして、東町城はその家臣河上富信に守らせたという。河上富信は、江馬氏が越中に進出した際に中地山城を任されていた武将で、輝盛の命を受けて上杉家に書状を出していた人物でもある。輝盛の信頼する家臣であったのだろう。
 その後、輝盛は上杉方として、信長に誼を通じた姉小路頼綱(自綱)と対立していたが、天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死すると、好機とばかりに同年10月、高山盆地へと出陣した。しかし、八日町の合戦で輝盛は敗死してしまい、翌日には追撃によって高原郷も制圧され、江馬氏は瞬く間に滅んだ。富信がその頃、東町城に在ったかどうかは不明だが、越中に隠棲したと伝わっており、城主であったのなら防戦する間もなく放棄されたか落城したのだろう。
 このように、頼綱は江馬氏を滅ぼして実質的に飛騨を統一したのだが、その期間は3年に過ぎなかった。柴田勝家やその与力佐々成政など北陸勢と協力関係にあった為、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近によって攻撃を受け、滅ぼされたからである。支配期間が短かったからか、この姉小路氏時代の東町城の城代などの名などは伝わっていない。
東町城跡に建つ神岡城模擬天守から崖下の神岡市街を望む 飛騨討伐の功を挙げた長近は、越前大野から飛騨に移されてそのまま討伐地の支配を任されているが、金森氏時代には東町城に山田小十郎が城代として在城したという。その後、元和元年(1615)の一国一城令後は、他の支城と共に旅館として維持されたようだが、元禄5年(1692)の金森氏転封の3年後に破却され、農地化された。
 城は、平坦な河岸段丘上にある城で、所謂崖城である。昌景が命じて築城したとされており、静岡や群馬で見られる武田系城郭に雰囲気が似ているのは当然だろうか。構造としては、河岸段丘特有の切り立った崖の際に方形の本丸を築き、空堀を介して二ノ丸が繋がるという梯郭式の城で、二ノ丸の外側には幅広の堀があり、その外側にも郭が続いていたと思われる。ただ、城が東方向に拡がっていたのか、北東方向に延びていたのかは判らなかった。地形から見る限りでは、北東方向の切り通し状の道が、城域の北東端であったのは間違いないかと思われる。
 城跡には現在、高原郷土館を成す3施設のひとつ神岡城が建っており、空堀などがそのまま利用されていた。ただ、石垣は谷積の系統であることからして明らかに戦国期以降のものであり、神岡城の模擬天守が建てられた時に築かれたものだろうか。城跡であったと思われる区画が中学校や宅地になっており、城の全体像がよく分からないのが残念だが、周囲は非常によく整備されており、駐車場も広く、楽に寄ることができる城である。江馬氏所縁の史跡も周囲には多いので、それらを含め、のんびりとした史跡めぐりをお勧めしたい。