萩原諏訪城 所在地 岐阜県下呂市
JR飛騨萩原駅西260m
区分 平山城・崖城
最終訪問日 2017/5/19
萩原諏訪城本丸の石垣と堀 飛騨随一の勢力を誇った姉小路こと三木氏の居城であった桜洞城に代えて、萩原地方の治所として築かれた城。
 天正10年(1582)に信長が横死した後、その後継者争いの中で柴田勝家が滅んでも尚、秀吉と対立し続けたのが佐々成政だったが、その成政に加担したのが、念願の飛騨統一を果たした姉小路頼綱(自綱)であった。しかし、成政の討伐に本腰を入れた秀吉は、天正13年(1585)に頼綱の討伐を金森長近へ命じ、長近は頼綱に滅ぼされた旧臣や国人の裔を道案内として侵攻する。隠居していた頼綱の高堂城や、当主秀綱の松倉城で姉小路勢は抗戦するものの、衆寡敵せず、姉小路家は滅んだ。
 萩原諏訪城は、前述のように姉小路こと三木氏の興隆の城である桜洞城の代わりとして、萩原地方の治所として築かれた。その際、元にあった諏訪神社を遷座して築城したことから、それが城の名になっている。
萩原諏訪城本丸縄張図 築城に関しては、金森長近によるとの説と、その姉婿佐藤秀方が築いたという説があるが、秀方は一部の史料には長近の家臣とはあるものの立場的には長近とは同格であり、実際、後の慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、子の方政が長近とは別行動を取っている。秀方が長近の与力であった可能性はあるが、築城以降も独立的に動いている気配があり、萩原諏訪城の最初期は、厳密には高山城の支城という目的があったわけではなく、独立した治所だったようだ。また、一説に姉小路氏時代から既に在ったという説もある。
 その後、秀方の子方政は、関ヶ原の合戦で西軍に属して改易され、この城は東軍に属した金森氏に与えられてその属城となった。以後の城代は不明だが、元和元年(1615)の一国一城令後も旅館と称して温存されている。しかし、元禄5年(1692)に金森氏が出羽上山藩へ天封となった為、同8年(1695)に高山城や増島城だった古川旅館などと共に、この旅館も破却された。
 城の構造は、河岸段丘の崖に面して方形の本丸を築き、東から南にかけて二ノ丸、三ノ丸が続くという、飛騨地方特有の居館形式の城を近世城に仕立てたような縄張だったらしい。ただし、現地には本丸の縄張図しか無く、二ノ丸や三ノ丸も学校用地や住宅地になっており、城全体の正確な縄張はよく分からなかった。
本丸と二ノ丸の間の見事な内堀 現在の城跡は、諏訪神社が戻って来てその境内となっており、飛騨萩原駅からも近く、非常に見付け易い。本丸の堀が明確に残り、石垣もかなりの部分が残っているが、東側入口の石垣は野面積ではなく後世の谷積で、弧を描いて築かれている上、本来は虎口が無かったようなので、この部分や神社に近い部分は、諏訪神社が戻って来た際に築き直されたものだろう。大手は南側で、その先は高低差も少なく緩やかに繋がっているが、残念ながら二ノ丸跡地にあたる神社入口や中学校付近には城の痕跡はほとんど見られなかった。西側の搦手は、現在は神社裏口の階段となっているが、石垣の様子を考えると、現在の階段よりももっと鈎状にしっかり曲げられた、もう少し大きな虎口だったと思われる。この辺りが最も城らしい構造を残しているのではないだろうか。全体的には、河岸段丘を利用した飛騨らしい城で、石垣もよく残されており、近世的な雰囲気が色濃く残る城である。