八幡城 所在地 岐阜県郡上市
東海北陸道郡上八幡I.C.東1.6km
区分 山城
最終訪問日 2012/5/12
大垣城を模した天守閣 郡上八幡城とも呼ばれ、永禄4年(1561)、東氏を追った遠藤盛数によって、陣城を構えていた峻険な八幡山に築城された。
 中世の郡上郡では、承久3年(1221)の承久の乱の功などで所領を得て下向して以来、東氏が着々と勢力を扶養しており、常慶の代になると、外部からの侵攻を防ぎながら郡内の統一を進めるようになる。この郡内の勢力拡大において抜群の功を挙げたのが、盛数とその兄胤縁であり、当然のように東家中での遠藤兄弟の権力は相当大きくなっていったようだ。
 八幡山に陣が置かれるまでの状況としては、遠藤氏側資料では、常慶の代に至って嫡子常堯が非道であった為に娘婿の盛数に家督を譲ろうとしたが、常堯が武力で継ごうと画策して盛数の兄胤縁を謀殺し、これを知った盛数が常慶の命を受けて国人を糾合、永禄2年(1559)八幡山に陣を構えて赤谷山城へと攻め寄せたと説明されている。そして、この戦いによって常慶は討死か自害をし、常堯は城を追われ、遠藤氏が郡上を治めるようになったという。しかし、盛数に命じたはずの常慶が籠城で盛数に抗し、そして討死しているという大きな矛盾点があり、簡単に信じられる話ではない。当時の乱世の常識や、盛数が東氏の家督を継いだ際に東を称さず遠藤のままとしたこと、何よりも東氏が没落しているという状況を考えると、実力による下剋上の雰囲気が色濃く漂っているのは間違いなく、常堯の非道も遠藤氏の正当性を主張する為に作られた話の可能性がある。
 東氏追放後、郡上を掌握して八幡城を築城し、木越城から移った盛数は、斎藤氏に従い、対織田戦線に出陣するなどしているが、永禄5年(1562)に稲葉山城下で没した。盛数死後は嫡子慶隆が跡を継いだが、まだ13歳ということもあり、慶隆の母、つまり常慶の娘が長井道利に再嫁してその後見を得たという。ちなみに、この時の連れ子が、織田家家臣山内一豊に嫁いで良妻賢母の鑑として後世有名になった後の見性院とする説がある。
 慶隆は、相続直後の永禄7年(1564)には、胤縁の嫡子胤俊が不意を衝いて八幡城を襲い、城を奪われているが、道利の後援を得てすぐさま奪回し、その後も幾度かの叛乱を抑えて領内を掌握していった。対外的には、信長の美濃進出後は織田氏に従い、後には美濃を領した信長の嫡子信忠や同三男の信孝の軍に属している。天正10年(1582)の本能寺の変後は、翌年に信孝が秀吉に岐阜城を囲まれて降伏すると、慶隆も降伏し、同12年(1584)の小牧長久手の戦いでは秀吉配下として参陣したものの、過去の経緯もあってか織田信雄に通じた疑いをかけられ、やがて同16年(1588)には郡上から加茂郡に転封させられてしまう。そして、代わって入部した稲葉貞通は、慶隆の整備した城を基礎に大幅な改修を施し、天守や麓の二ノ丸が整えられた。
 その後、旧領奪回を目指す慶隆は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍につき、西軍についた貞通の留守を狙って八幡城を攻めたが、逆に戻ってきた貞通に奇襲され、決定打を欠く両者は和睦する。和睦後、慶隆は関ヶ原の合戦の本戦にも参加し、家康の本陣を固め、その功によって念願の旧領2万7千石を回復した。江戸時代には、3代常友が寛文7年(1667)に城の改修を行って城主格から城主に昇格したが、元禄5年(1692)に5代常久が没して嗣子なく断絶してしまい、その後は井上氏、金森氏と続く。だが、金森氏も頼錦の時に失政で改易となり、代わって青山氏が維新まで藩主を務めた。
 城は、三方が川に面した崖という山塊の突端に築城され、自然の地形を最大限利用した天険の城だが、規模自体は大きくない。また、崖ではない尾根筋にも天険が続いているが、こちらには大きな堀切が目立つ程度で、やはり山容が防御力の源泉だった城なのだろう。縄張も複雑ではなく、頂上や尾根筋を削平して造った中世の様式の城を石垣で固めたような感じだ。ちなみに頂上の石垣部分全部が最初の本丸であり、青山氏の時代に麓の二ノ丸が本丸となり、旧本丸は桜ノ丸と松ノ丸に名称が変えられている。
複雑に組まれた石垣 明治4年の廃藩置県で廃城となった後、翌年には城の建物が解体され、石垣だけが残った。現在の天守閣は昭和8年の建設で、大垣城の天守を模して建てられたのだが、そもそも、八幡城に天守があったかどうか確認できていないので、全くの模擬天守である。だが、木造の模擬天守としては全国で一番古く、それなりに年月を経ており、模擬とは言えない風格が漂っていると感じるのは、気のせいではないようだ。麓の情緒溢れる町並みから見上げると天守があり、もはや郡上八幡の情景として欠かせない存在となっている。