岐阜城 所在地 岐阜県岐阜市
国道256号線長良橋東南1km金華山山頂
区分 山城
最終訪問日 2002/11/13
岐阜城遠景 鎌倉幕府の政所執事二階堂行政が、京への抑えとして建仁元年(1201)に築いたのが最初。岐阜城と名付けたのは信長で、稲葉山城や金華山城、城下の名から井ノ口城の名もある。
 築城後は、行政の子とも娘婿ともされる佐藤伊賀守朝光が譲られて城主となり、その子光宗は伊賀を名乗って政所執事になるほど鎌倉幕府に重用された。しかし、執権北条義時の死後、血縁である北条政村擁立を画策して流罪となっている。この光宗から城を受け継いだのは弟の光資で、城を稲葉山城に改名し、自らも稲葉と名乗りを変えたのだが、この一連の流れは、光宗の叛乱で幕府に遠慮して行われたものらしい。光資の後は、行政の曾孫で同じく政所執事となる二階堂行藤が城主となるが、その死後は一旦廃城となった。
 その後、室町時代の応永年間(1394-1428)に稲葉山城を修復して再興したのは、美濃国守護代の斎藤利永であった。利永は美濃の争乱の際に加納にも沓井城を築いているが、土岐氏の守護所が近くの川手にあったということもあり、川手周辺を絶対的な基盤として防備を固める意図があったと思われ、守護に匹敵する力を蓄えつつあったのだろう。
 この利永から稲葉山城を受け継いだのは弟の妙椿である。妙椿は、守護代を継いだ利永の子利藤を後見しつつも、その力は利藤を遥かに凌ぎ、美濃国内に留まらず周辺諸国や京にまで影響を及ぼす存在で、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では、妙椿は守護土岐成頼と共に山名宗全に味方し、西軍の主力を成すほどであった。しかし、その死後は、利藤とその弟で妙椿の養子となっていた利国が相争い、斎藤家は守護の土岐家と共に徐々に勢力を衰えさせていった。
 守護や守護代に入れ替わるように力を蓄えたのが、美濃の蝮こと斎藤道三である。道三は日蓮宗妙覚寺で修行した後、油売りの商人として諸国を渡り歩き、美濃で西村家、長井家、そして守護代斎藤家の名跡を次々に継いで守護土岐頼芸を追放し、美濃の国主になったとされてきた。しかし、隣国近江の六角承禎の文書には、西村左衛門尉という武将が長井氏に仕え、やがてその名跡を継ぎ、その子規秀がさらに守護代斎藤家の名跡を継いで斉藤秀龍と名乗り、守護土岐頼芸を追放したとある。これにより、かつて道三の事跡とされていたのは父子2代に渡る物語であったというのがほぼ定説になっている。
当時の姿を一番留めているといわれる二ノ丸虎口 道三がこの稲葉山城に居したのは、斎藤氏の名跡を継いだ後らしい。そして、それまで中世的な山城だった稲葉山城を改修増築して厳固な城とし、天文16年(1547)には城下に攻め寄せた織田信秀の軍を撃退している。道三は、この翌年に信秀と和睦し、娘の帰蝶を信秀の子信長に嫁がせたが、この関係から、弘治2年(1556)に嫡子義龍に長良川で敗れた際、その陣中で信長宛の譲り状を書いたのは有名な話だ。
 道三の没後、弔いと称して美濃侵入を試みた信長であったが、義龍の在世中は美濃国人衆がよくまとまって手出しができなかった。信長の美濃攻略が本格化するのは、義龍の死後、その子龍興が継いでからである。龍興は国政を蔑ろにした為に竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りや美濃三人衆の離反など、国人衆の支持を失ってようやく綻びが見え始め、信長は永禄10年(1567)、ついに稲葉山城を攻略した。そして、天下布武の旗印として山を金華山に改名し、城下も井ノ口という名前から、中国の周が岐山から興ったことに因み、岐阜とした。これが現在も残っている岐阜という地名の始まりである。
 信長はこの城を居城として、足利義昭を奉じての京都上洛や、信長包囲網に対して四方に兵を繰り出したが、天正7年(1579)には近江の安土に南蛮風の城を築いて移り、岐阜城は嫡子信忠が守った。本能寺の変で信長・信忠父子が討たれると、道三の遺児といわれる斎藤利堯が城を奪ったが、山崎の合戦で明智光秀が敗れると秀吉に降伏し、清洲会議後は信長の子信孝が入って織田家の名目的な後継者となった三法師を後見した。しかし、信孝も同年末に柴田勝家や滝川一益と結んで秀吉に対し兵を挙げた為、討伐されて降伏し、翌年の賤ヶ岳の戦いでも再び秀吉と対立するが、秀吉方に付いた兄織田信雄に包囲され、勝家滅亡後に降伏、自刃している。
 信孝の後は池田恒興が美濃を与えられ、その嫡子元助が岐阜城主となっていたが、翌年の小牧長久手の合戦で恒興・元助父子が討死した為、弟輝政が遺領を引き継ぎ、やがて大垣城から本拠を移した。輝政の移封後、秀吉の甥秀勝、そして信長の嫡孫でかつての三法師である秀信が城主となり、秀信は関ヶ原の合戦では西軍に属したが、前哨戦として東軍が攻撃した際は、桶狭間の合戦で苦境を打破した信長の頃より籠城は家法に無いとして討って出、敗れて城は落城した。関が原の合戦後、落城の為に岐阜城の荒廃が激しく、治世の政庁としての要望もあり、南方の加納に城が築かれて城は廃された。
 岐阜城の遺構は、加納城に用材が使われた為、今は殆ど形を留めていないが、山頂には展望台と資料館を兼ねた天守が建つ。この模擬天守は実は2代目で、明治43年建設の初代天守は昭和18年に焼失し、戦後の昭和31年になって再建されたものである。
岐阜城天守閣 戦国期から登城ルートは3ルートあるとされているが、そのどれも峻険な道が続き、堅城ぶりがよくわかる。その途中に明確な郭跡などはあまり見られないが、往時は全山城郭化されていたという。現在はロープウェイが山頂まで通って登城は楽になっているいるが、時間をかけて自分の足で登ってみると、長良川を一望できる眺めや山の峻険さが、ロープウェイで登った時と一味違う感覚をもたらしてくれる。
 また、麓にも信長時代の居館の石垣や、その下から発掘された斉藤氏時代の中世的な石垣が一部展示されており、一見の価値がある。