伏屋城 所在地 岐阜県岐南町
岐南町役場南東1km
区分 平城
最終訪問日 2012/5/12
伏屋城説明版 岐南町の伏屋地区にあった城。
 美濃攻略を目指す信長が秀吉に命じ、永禄年間(1558-70)に築かせたという。秀吉は木曽川周辺の土豪の協力を得、用材を筏に組んで木曽川に流し、一気に運び込んで短期間のうちに砦のような城を築いたといい、その伝承の為、一夜城とも呼ばれる。後には、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦で、伏屋市兵衛が守備しているのが見えるが、これ以降は城が史料に登場せず、しばくして廃城になったようだ。ちなみに、この伏屋市兵衛は、これより前に濃尾衆主体の織田信忠軍に属していたと史料にあるので、この伏屋を本貫とする在地豪族ではないかと思われる。
 伏屋城の築城伝説は、長良川沿いの墨俣の城と全く同じであり、秀吉が自らの成功例を模倣してもうひとつ城を築いたのか、伝承だけがコピーされたのかは判断できないが、墨俣の一夜城のほうが断然有名なのは間違いない。だが、地図を見ると、当時信長が本拠を置いていた小牧城と美濃斎藤氏が本拠を置いていた稲葉山城のほぼ直線上に城があり、墨俣城は稲葉山城と大垣城を分断するという戦略的価値があるとはいえ、伏屋城も前線基地としては喉元に付き立てられた刀のように地勢的にかなり重要だったと思われる。しかも、流路が変わる前の当時の木曽川は今の境川の流路であり、北に天然の防衛線まで備えた守り易い城だったはずなのだが、如何せん、城に関する史料が少な過ぎて当時の城の状況を判断しようが無い。武功夜話の真偽と共に議論される墨俣城の史実が明らかになれば、関連してこの伏屋城の築城時の状況も少しは明らかになると思われ、この時代の新たな史料発掘を願うばかりである。
 城跡は、現在の岐南町伏屋地区にあったが、地図を見ても、現地を散策してみても、城跡らしい痕跡は見られない。遺構としては、諏訪神社の100mほど西に残る僅かな土塁跡が唯一のもので、城の説明板もそこに建てられている。
 歴史を調べる過程で知った訳ではなく、何の気なしに地図を眺めていて偶然にも発見した城だが、現地にあった住宅地図には城跡の表示が無かった為、1度目は遺構に辿り着けず、十分に下調べをした2回目の訪問の際にようやく辿り着けた。
僅かに残る土塁跡 この1度目の訪問時に、城を探しながら伏屋地区をぐるぐると回って気付いたが、地区周辺には伏屋姓の人が多い。この人達は、恐らく伏屋市兵衛かその一族の子孫と思われ、これも城の名残と言えるかもしれない。また、同じくこの時になんとか辿り着いた伏屋地区の中心の白山神社と憶念寺には、無造作に伏屋城の想像図が立て掛けられ、そこには秀吉の一夜城と書かれてあったのだが、特に案内板などの類が無かった為、一夜城の伝承のことは現地ではさっぱり分からなかった。後で調べてようやく伝承を知ることができたのだが、墨俣と同様の伝承であり、もう少し知られてもいいのではと思う。