古川城 所在地 岐阜県飛騨市
JR飛騨古川駅南西1.6km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/20
古川城本丸 姉小路家のひとつ、古川姉小路家の城。ただ、城自体の築城年代や築城者は不明で、古川姉小路家による築城かは不明である。
 姉小路氏は、小一条流の藤原氏で、鎌倉時代に幕府が神輿として京から将軍を迎えていた関係から、公家ながら鎌倉に住していたようだ。飛騨への下向は、参議を務めた飛騨国司家の初代高基が、建武政権期の建武3年(1335)に国司に任命されてのことで、一説にそれは子家綱の頃であったともいう。家綱は、南朝方の越中守護桃井直常と協力しており、姉小路氏は終始南朝方として活動したようだ。
 明徳3年(1392)の南北朝合一後の姉小路氏は、3分裂していたことが見え、古川城には古川姉小路家が在った。国府がある古川国府盆地は、北西から南東方向に細長く、姉小路氏の城として大まかに北西の盆地端と中央北東側、南東の盆地端に3つの城が盆地を囲むように三角形を成しているが、その南東の盆地端の城が古川城である。
 古川姉小路家の当主尹綱は、家綱の弟とも甥ともいわれるが、他の姉小路家と領地や待遇を巡って争いがあったといい、応永18年(1411)にその本拠小島城と向小島城を攻撃した。これに対し、幕府は飛騨守護の京極氏に命じて討伐させ、尹綱は滅んだ。これを飛騨の乱という。この時、尹綱は本家の城である小島城で防戦したといい、古川城がどうなったかは不明であるが、それまでの本拠であったが故、幕府方による占拠や落城があったのは間違いないと思われる。
 戦後の古川姉小路家は、尹綱の遺児昌家が本家の姉小路師言に養育され、後に再興された。昌家の子基綱と孫済継は在京期間が長かったようで、官位も高位に昇り、歌人としても名を残しているが、その裏で応仁元年(1467)からの応仁の乱の際には、乱の影響で姉小路三家が守護京極氏や守護代多賀氏を巻き込んで争っており、一時は古川姉小路家も飛騨の領地を失う状況であったようだ。ただ、本家の小島姉小路家の勝言が死没した後は、基綱がその遺児時秀に娘を娶せ、基綱が実質的な惣領となった。
 16世紀に入ると、領地維持の不安定さから、基綱・済継父子は飛騨に在る期間が長くなったようで、基綱は古川で没したという。済継やその子済俊の頃になると、不在時の代官として台頭した古川富氏が専横を強め、永正15年(1518)の済継の急死や、大永7年(1527)の済俊の早世には、富氏が関わっていたという説もある。いずれにしろ、当主の相次ぐ交代は、他にも見られるように勢力の衰退に繋がり、以降、台頭する三木氏の勢力に抗することができず、享禄4年(1531)に古川城始め3城が落城し、古川姉小路家は没落した。そして、永禄3年(1560)に、その名跡を三木頼綱(自綱)に奪われることとなる。
古川城3段目とそこに祀られた蛤石 古川姉小路家が没落した後、古川城には牛丸氏が進出したとされるが、享禄4年の戦いでは牛丸氏は敗れた側であり、どのような事情があったのか詳細は知れない。その後、前述のように三木良頼が勢力を伸ばして姉小路家の名跡を継ぎ、古川城も領したが、永禄7年(1564)の武田家臣山県昌景の侵攻の際には、丹生川の塩屋秋貞が武田軍に敗れて古川城に移っており、それまでに領有の遷移があったようである。秋貞と三木氏は協力もしくは臣従関係にあり、その過程で委譲されたものかもしれない。
 秋貞は、後に上杉軍に属し、天正4年(1576)の上杉軍侵攻の際には目代を務め、上杉氏の飛騨支配において重要な地位にあったが、その後は織田氏に通じ、天正10年(1582)の本能寺の変後の混乱の中で翌年に討死している。また、時期の前後は分からないが、この頃には良頼の子頼綱が再び古川城を領有したようだ。頼綱は、柴田勝家に与していた関係から、佐々成政とも協力しており、秀吉による成政討伐の過程で天正13年(1583)にその家臣金森長近に攻撃され、没落した。この際、古川城も金森氏の領有となっているが、戦闘は高堂城や松倉城がそのほとんどであり、古川城で戦いがあったかどうかは不明である。戦後、長近の養子可重が入城したが、翌年の増島城築城に古川城から資材を持ち出し、廃城となった。
 城は、古川盆地を流れる宮川の南西側にあるが、この付近は宮川が盆地の南西端を流れている為、山が直接河岸へと落ち込んでおり、城下町や居住区画の為の平地がほぼ取れない代わりに、城の堀としては有効に機能している。そのような、稜線が川に張り出した部分の先に盛り上がった峰があり、そこに城があった。城の性格としては、詰城としての機能がほとんどかと思われるものの、現在の肥料工場や石材置き場が往時から削平地であるのならば、居住区画も十分確保できたはずだが、どうだったのだろうか。
 城は、東峰中腹に広めの削平地があるが、それ以外は中腹にこれといった遺構は見当たらない。その少し上に主郭部があり、4段で構成され、3段目と4段目の間には、明確な虎口があった。また、主郭部付近には所々に河原の丸石が見られ、往時は石垣か石塁があったと見られる。主郭部の3段目に入ると広くなり、蛤石という変わった姿をした石があって、削平地はそのまま本丸南側から西側まで帯郭状に続く。3段目からは、繋ぎのような狭い2段目を挟んで最高部の本丸へ通じており、東西に細長い楕円の本丸西端には、櫓台と思しき基壇があった。本丸が象徴するように、全体的に東西に長い城である。
3段目の虎口と石垣の痕跡 宮川沿いの北東側河岸を走る国道41号線の反対側、南西河岸を走る県道471号線から急坂で鋭角に入る道があり、その道をしばらく行くと、工場と石材の山があるのだが、その石材の山の向かいに倒壊した廃屋があり、その西側の脇に登山道があった。ただ、笹竹や雑草で道が判り辛く、1度見逃したほどで、もし廃屋が撤去されれば目印が無くなってしまうかもしれない。城の登山道もきちんと整備されているわけではないので、相応の装備を持って訪れたほうが良いだろう。