赤谷山城 所在地 岐阜県郡上八幡市
郡上八幡市街南側
区分
最終訪問日 2017/5/19
 奥美濃の豪族、東氏の最期の城。ただ、赤谷山城と、同じく東氏の居城とされる東殿山城には諸説があり、両城は同一であったとも、峰違いで隣接しつつも異なった時代に築かれた城ともいう。同一とする場合には、同じく東氏によってより古い時代に築かれた古城を犬啼山城とし、新城を東殿山城こと赤谷山城とするが、両城を別とする場合には、古城を赤谷山城、新城を東殿山城としている。近年は、赤谷山城を東殿山城と同一とすることが多いようだ。
 東氏は、桓武平氏の名門千葉氏の分かれで、源平合戦の時代の当主である千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘に住み、地名を名字としたことに始まるという。治承4年(1180)5月の以仁王の叛乱の時、初代の胤頼は大番役の任にあったが、任期を終えて乱後の6月末に関東へ戻った際には、伊豆の頼朝の下へ伺候しており、この頃から既に源氏与党であったようだ。頼朝が8月に挙兵した後、三浦一族と合流できずに石橋山で敗れて安房に落ち、9月には千葉氏へ使者を送って支援を要請しているが、胤頼は兄で嫡男の胤正と千葉館で使者を迎え、共に父常胤を説得し、千葉一党は頼朝の味方となる。この一週間後には、胤頼らは来攻してきた下総国司藤原親政を破り、下総国府で頼朝と合流し、10月に鎌倉入部を果たした。こうして、千葉一党は、鎌倉幕府の創業の功臣として各地に領地を得るのだが、胤頼は、前述のように新領地ではなく千葉一党の重要拠点のひとつ東荘を譲られ、東を称している。その後、胤頼の孫胤行が、承久3年(1221)の承久の乱の功で美濃国郡上郡山田荘を得、次男行氏が下向して美濃東氏の祖になったという。
 美濃東氏は、この後、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての当主氏村の時代に篠脇城を築き、以来、拠点としていたが、戦国時代中期の当主常慶の頃の天文9年(1540)に朝倉氏の攻撃を受けた。この時は籠城での撃退に成功し、翌年の朝倉軍の再侵攻も油坂峠で撃退しているが、常慶は、防御の不安から同年に赤谷山城を築いて移ったという。
 常慶は、東氏を戦国大名に脱皮させようとした当主で、系図では一門の枝葉とされる遠藤胤縁・盛数兄弟を重用して反抗的な一門や土豪を討伐し、集権化を図った。だが、この遠藤兄弟は、前述の対朝倉戦にも功を挙げており、結果的にはその台頭を招くこととなってしまう。また、常慶には常堯という嫡子がいたが、性格が嗜虐的で、真偽はともかく娘婿の盛数に家督を継がせるつもりであったと伝わる。一方で、常堯は胤縁の娘を室に迎えようと画策したが、胤縁に拒否された為、胤縁を深く恨んでいたという。
 これらの事が重なり、永禄2年(1559)8月1日に八朔の行事で登城した胤縁を常堯が暗殺してしまった。これに怒った胤縁の弟盛数は、弔い合戦の兵を挙げ、14日から両者が戦い、24日に赤谷山城は炎上落城するのである。これにより、常慶は討死し、常堯は追い落とされ、東氏は滅んだ。また、戦後に盛数は、赤谷山城攻略の際に陣を敷いた、吉田川を挟んだ向かいの山である八幡山に城を築き、赤谷山城は廃城となった。
 ただ、これら一連の話の流れには疑問がある。仇討ちの対象である常堯が落ち延びているのに対し、常堯を見限って盛数に家督を譲ろうとしていた、盛数と争点の無い常慶が討たれているのは、かなり不自然と言えるだろう。通常であれば、やがて盛数が東氏の勢力を受け継ぐとしても、常慶から正統な手続きで継承しなければ正統性に疑問符が付くのが当たり前で、その観点からも常堯が落ち延びた段階で和睦が成立するはずであり、命を取るまで争う理由が見当たらない。つまりは、構図としては家臣による単純な下剋上であるが、その理由を後付けされた疑いが高いのである。系図上は一門枝葉でありながら、重臣の姓である遠藤を名乗り、東氏滅亡後も姓を戻さなかった事実も合わせ、江戸時代の作為と見るのが妥当だろうか。
 城は、郡上八幡の市街の南にある赤谷山城にあるが、きちんとした登山道は整備されていないようだ。過去に、郡上八幡市街から登山道を探してみたが、見当たらなかったので、山の南の道から探ってみたが、こちらにも城の表示は無かった。どうやら、市街の愛宕公園から峰筋に入ることができるらしい。ただ、しっかりとした山登りの装備は必要のようである。