柳川城 所在地 福岡県柳川市
柳川市役所西すぐ柳城中学校周辺
区分 平城
最終訪問日 2014/10/19
柳川城天守台石垣 柳川周辺は、嵯峨源氏の流れである蒲池氏の代々の領地であった。蒲池氏は、建武3年(1336)の多々良ヶ浜の合戦で当主武久が討死してしまったことから当主不在となり、後に宇都宮氏から久憲が婿養子に入って名跡を継ぐのだが、氏族が違う為、武久までを前蒲池、久憲以降を後蒲池と呼ぶ。柳川城を築城したのは、この宇都宮氏系の後蒲池氏である。
 久憲は、当初は南朝方であったが、後に北朝方の大友氏の傘下に入って勢力を拡大し、筑後国内各地に一族を分立させるなど基盤を固めた。以後の当主も安定して勢力を伸ばし、蒲池氏は、戦国時代には筑後国人衆の最大勢力として、筑後十五城の旗頭と呼ばれるようになる。この柳川城を築いたのもその頃で、治久が文亀年間(1501-04)に支城として築いたという。しかし、力を持ち過ぎたことで大友氏に警戒されたのか、治久の子鑑久の時に弟親広が分立して上下2つの家に分けられたほか、天文年間(1532-55)に八朔の忠節を怠って豊後府内で斬られたとある鑑貞は、鑑久自身の事だったともいわれる。
 蒲池氏がこの柳川城に本拠を移したのはこの鑑久か、その子鑑盛の時で、天文年間(1532-55)とも永禄年間(1558-70)ともいわれ、本拠地として大規模に改修もされた。この鑑盛は、10万石以上という身代に負けず情けも深く、龍造寺家兼やその曾孫隆信が佐賀を追われた時には、これを保護し、隆信には援軍を付けるということもしている。
 その後、大友軍が島津軍に大敗した天正6年(1578)の耳川の合戦で鑑盛が討死すると、嫡子鎮漣(鎮並)は室が隆信の娘であったこともあり、他の大友配下にあった国人領主と同様に大友家から離反して隆信と気脈を通じたが、意見の齟齬があったのか、鎮漣が島津氏に接近したのか、次第に隆信と対立するようになり、両者は天正8年(1580)に激突した。しかし、この戦いで龍造寺軍は大軍を投入したものの、鎮漣はこの城に1年近く籠城して結局城は落ちず、隆信は一旦鎮漣と和睦した後、翌年に和睦の礼と称し鎮漣を佐賀に呼び出して謀殺し、同時に柳川城を開城させて蒲池宗家を族滅している。ただ、上蒲池家などの庶流は、他の大名の家臣として江戸時代まで血脈を保った。
 蒲池氏が滅んだ後の柳川城には、龍造寺家宿将の鍋島信生(直茂)が入城したが、この人選からは、蒲池氏への対応によって動揺の広がった筑後を安定させたい隆信の思惑が見て取れる。しかし、天正12年(1584)に沖田畷の合戦で隆信が討死してしまうと、直茂は龍造寺家中全体の鎮めとなるべく隆信の子政家の補佐の為に佐賀へ移ることとなり、柳川城には龍造寺家晴が入った。隆信の討死は、当然ながら隣国にとっては好機であり、家晴の柳川入城と同時に、龍造寺家の動揺を衝いた筑前の立花道雪や高橋紹運の襲来を招くこととなるが、筑後の諸城が抜かれる中、柳川城だけは落ちず、堅城振りを発揮している。
 天正15年(1587)の秀吉による九州征伐後は、島津氏の北伐を凌いだ功により、紹運の子で道雪の養子となった立花宗茂が柳川城に封ぜられたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に与した事によって除封され、代わって田中吉政が入部した。吉政は、筑後川沿いに長大な堤防を築くなど民政に努めたが、長男吉次とは不和であった為、その跡は四男忠政が継ぎ、忠政には子が無かった為、元和6年(1620)に断絶してしまっている。これにより、奥州棚倉で大名として復活していた宗茂が再び10万石で柳川に戻り、以降は維新まで立花家が続いた。
 城は、「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と言われたように、龍造寺氏の大軍や立花道雪といった名将が攻めても落ちなかった堅城である。蒲池氏時代の城の縄張がどの程度近世の城に残っていたかは分からないが、本丸と二ノ丸を並列に置き、周囲を内堀で囲むという主郭部分は変わっていないと思われ、その外側も天然のクリークを残していたか堀として整えたか程度の違いだったのではないだろうか。近世城郭としては、吉政による改修が基礎となっており、柳川下りで有名な無数の堀もこの当時に整えられたのもので、天守や惣構えも同時に造成されたようだ。
堀を巡る柳川下りの様子 元々が方形の平城だけに、現在の街並みや道路には当時の縄張が色濃く残っていて、街の特徴となっている。しかし、市街地化された一帯が城跡の為、城としての遺構は少ない。現在の柳城中学校と柳川高校が本丸と二ノ丸、内堀の範囲に相当するが、明治5年に五層五階の天守を始めとした建物が焼失し、内堀も埋められてしまった為、この中核部分ですら、学校の敷地内に天守台があるほかは、学校周辺の道路に城門などの城の縄張を示す石碑がある程度だった。とは言え、両校の間の小路を歩くと、天守だった石垣なども見え、それなりに城の痕跡を感じることができる。