山隈城 所在地 福岡県小郡市筑前町境
甘木鉄道西太刀洗駅北1.7km
区分 山城
最終訪問日 2001/11/2
山隈城址碑 標高131mの花立山の山頂に築かれた城で、花立山城とも呼ばれる。
 築城は南北朝時代で、延文4年(1359)の筑後川の合戦の際に、北朝方の少弐頼尚が本陣を置いて築城したという。ただ、この時はあくまで陣城で、本格的な築城ではなかったかと思われる。この後、武家方は筑後川北岸の味坂に陣を変え、更に前伏へと移ったが、ここで南朝方との激戦に敗れ、頼尚は、兵をまとめて再びこの花立山へと退いた。そして、更に宝満山へと撤退するのだが、南朝方の優勢は続き、後の太宰府陥落へと繋がっていくのである。ちなみに、この時に南朝方の菊池武光が血に濡れた太刀を洗ったことから太刀洗川の名前が付き、それが地名にもなった。ただし、現在は行政手続きの不備から大刀洗という漢字になった為、そちらの表記が多くなっている。
 その後、陣城を改修していつの頃からか恒常的な城として使われるようになり、戦国時代には大内氏に代わって筑前筑後へと勢力を伸ばした大友氏の支配下にあったようだ。この頃、山隈城近隣の高橋氏や秋月氏も大友氏に臣従しており、筑前筑後の国境一帯は大友氏の支配下であったことが解る。しかし、弘治3年(1557)には秋月文種が毛利氏に通じて叛旗を翻し、大友氏はこれを討伐して滅亡させたものの、永禄2年(1559)には毛利氏の支援で文種の次男種実が劇的に本拠へと復帰した。以降、種実は臣従した期間もあったが概ね反大友の一翼として活動し、大友氏もやがて秋月討伐の軍を起こす事になるわけだが、この両者の戦いに山隈城が登場する。
山隈城縄張図 永禄10年(1567)、大友宗麟は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速ら重臣に秋月氏討伐を命じた。命を受けた3将は、秋月氏の支城を落としつつ順調に休松城まで進軍したのだが、ここで毛利氏が豊前へ出兵するとの報を受け、配下の国人衆が自領へと帰還してしまう。これにより、大友軍は已む無く討伐を休止して撤退することを決めるのだが、その途中で秋月氏の執拗な追撃を受けた。最初の追撃では秋月勢の撃退に成功するが、その日の夜の夜襲では、吉弘隊や臼杵隊が混乱に陥り、重大な損害を受けてしまう。この時に損害を蒙った大友軍の撤退先が山隈城であり、大将たる鑑連はしばらく在城していたようだ。
 その後、大友氏の勢力後退により、秋月氏が勢力を伸張し、山隈城も秋月氏の支城として機能したという。しかし、秋月氏は天正15年(1587)の秀吉による九州征伐で降伏し、日向へ移された為、筑前を領した小早川氏の支城のひとつとなって改修の手が入った。筑前と筑後を結ぶルート上にあり、筑後川に繋がる宝満川の水運も監視できることから、城はある程度重要視されたと思われる。だが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後に小早川氏が転封すると、代わって入部した黒田氏は福岡城を本拠に六端城を整備した為、廃城になったという。
 城の構造は、山頂に本丸を置き、やや下がった北西方向に二ノ丸を張り出させ、更に下がった本丸北東方向に三ノ丸を設けた小規模な山城で、城全体が筑前と筑後に跨っている。現在でも本丸と二ノ丸の大部分が筑後側の小郡市に、二ノ丸の一部と三ノ丸のほぼ全てが筑前側の筑前町に属しており、双方の教育委員会による説明板が建てられていた。城域自体は中世的で、コンパクトにまとまっており、筑前筑後両国を監視する上で最適だったと思われる。小早川時代に改修が入ったとも伝わるが、領地と城の規模の対比や防衛施設を考えると、小早川家としては監視拠点、もしくは狼煙の伝達拠点として使い、防衛拠点としては考えていなかったのだろう。
本丸全景 最初に訪れた時は、予備知識も無く城山公園というだけで立ち寄り、麓から登るということで時間的に断念したが、調べてみると山頂まで車道があることが判り、再訪することにした。城山公園北側に工業団地があり、その西端から山の北西側へ回ると山へ道が伸びており、上り切った三ノ丸下段部分が駐車場となっている。この駐車場部分は地下が貯水施設のようで、放水の大きな音がしていたが、三ノ丸の段差は後世のものかもしれない。すぐ近くの本丸にまで上がってみると、遺構と解る部分は少ないが、展望台が設けられており、秋晴れの中、眼下の景色が非常に爽快だった。