立花山城 所在地 福岡県福岡市東区
JR香椎駅北東3.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/29
立花山全図 立花道雪やその養子宗茂という、猛将として名高い武将が本拠とした城で、立花城ともいう。
 立花氏は大友氏の一族で、元徳2年(1330)か建武元年(1334)に大友貞宗の子貞載が立花山に城を築き、立花氏を称したのに始まる。貞載は、九州に落ち延びた足利尊氏に味方して上洛した際、尊氏暗殺を目論む結城親光と刺し違える形で没したが、貞載には子がいなかった為、弟の宗匡が立花城と立花の名跡を引き継いだ。
 宗匡は北朝方だった大友宗家に従って活躍したが、南朝勢力が太宰府を奪って征西府を置いた康安元年(1361)頃には、立花山城は宗匡の支配にはなかったようだ。その後、九州探題として下向した今川了俊貞世に従って功を挙げ、応安年間(1368-75)に城を回復している。
 室町時代の中頃になると、北九州には了俊の討伐軍に従って足掛かりを得た大内氏が勢力を伸ばし、応永6年(1399)の応永の乱で義弘が討たれたものの、弟の盛見が実力で跡を継ぎ、やがて筑前の守護にもなった。これによって利害が衝突することとなった少弐氏や大友氏は盛見と対立し、やがては軍事衝突するが、この過程で立花山城も永享3年(1431)に大内軍によって陥落しており、同年に大友・少弐連合軍が盛見を破って敗死させたことによって一旦は回復されたが、以降も文安2年(1445)に再び大内教弘が攻略し、応仁2年(1468)に応仁の乱に上京、参陣した大内軍の隙を衝いて大友氏が奪回した後、三たび文明10年(1478)に帰国した大内軍が北九州に進出して開城降伏させるなど、攻防が続いた。また、この降伏開城後、立花氏は大内氏に臣従した可能性もある。
 戦国時代初期の立花山城の動向は、大内氏の支配が安定したのか不明となるが、時代が下った天文元年(1532)には、御家再興を目指す少弐資元が筑前に侵攻し、それに協力した大友氏が資元を立花山城に迎えたという。この時は、城が大内軍の猛攻に遭い、落城したとも城を放棄したともいわれている。その後、立花山城が大友家重臣立花鑑載の居城として登場するが、これは大内義隆と大友義鑑が和睦した際に返還されたものか、天文20年(1551)に大内家重臣陶隆房(晴賢)が謀叛した際に協力の見返りとして大友氏に譲渡したものだろう。
 だが、この後も大友氏の筑前支配は磐石とはならなかった。永禄8年(1565)には鑑載が義鑑の跡を継いだ子義鎮に対して叛乱を起こし、城を攻撃されて逃亡している。鑑載は、後に罪を問われず助命されて城主に復帰し、また、目付としての役割があったのか、この頃に怒留湯融泉という武将が城の一角の守将として入城したとあるが、天文24年(1555)の厳島の合戦で晴賢を打倒した毛利元就が旧大内領を併呑して九州にも手を伸ばし始めると、高橋鑑種や秋月種実と同調した鑑載は、結局は毛利氏に通じて永禄11年(1568)に再び叛旗を翻した。しかし、その年の内には大友家宿将戸次道雪らによって攻略され、鑑載は捕えられて斬られたとも自刃したともいう。
 だが、立花山城を巡る争いはこれで終わらず、翌12年には龍造寺氏と対陣していた大友軍の隙を衝いて毛利軍が城を包囲し、開城させて小早川隆景らが入城後、すぐに攻守を変えて再び両軍が激突している。しかし、山陰で尼子氏の残存勢力の動きが活発化したことや大内輝弘が山口に侵入したことにより、元就は九州から手を引き、再び大友軍が開城させて城を押さえた。この開城は同年中とも翌年のことともいう。この後、元亀2年(1571)に断絶した立花家の名跡を道雪が継いで城督となってからは、秋月氏や筑紫氏の執拗な攻撃を受けながらも、大友氏の筑前支配は一応の安定を見た。
 道雪には男子がなく、ァ千代という一人娘がいたが、これに一旦家督を継がせた後、高橋紹運の長男統虎を婿養子に迎え、家督を譲った。これが猛将として有名な立花宗茂である。養父道雪の死後、実父紹運も天正14年(1586)に岩屋城で島津軍5万を迎えて壮絶に戦い、玉砕したが、更に北上する島津軍を宗茂はこの城で支え、翌年の秀吉による九州征伐軍上陸まで持ちこたえて賞賛されている。また、後の朝鮮の役では武名を大いに響かせ、道雪と紹運という猛将であったふたりの父に恥じない働きをした。
 その九州征伐後、筑前に入部した小早川氏は水軍を持っていた為、海に近い名島城を本拠とし、立花山城はその支城となった。これにより、筑前の最重要拠点という役割は事実上終わり、更に慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に入部した黒田氏は、新たに入部翌年から福岡城の築城に取り掛かってその資材を立花山城に求め、廃城となった。
 城は、標高367mの山頂に約300坪の本丸を持ち、松尾岳、白岳という隣接した峰に出城を築いて峰続きの全山を城郭化しており、東から南にかけては急峻な地形が防御力を高めていた。また、大軍を展開できない麓の谷や水源の豊富さというのも堅城としては好条件で、九州一の商都博多の北東約10kmという立地も申し分なく、戦国時代は北九州の重要拠点であった事が分かる。
 訪れた時は時間の関係で登城まではできなかったが、平日にもかかわらず登山する中高年の姿をよく見たので、城跡がある史跡の山というよりは登山で親しまれている山という感じなのだろうか。案内板を見る限り、登山道が整備されて自然を満喫できるようになっているようだ。また、周辺には立花氏ゆかりの史跡も多く、道雪の墓も存在している。