門司城 所在地 福岡県北九州市門司区
九州道めかりP.A.すぐ和布刈公園内
区分 山城
最終訪問日 2002/12/8
本丸跡にある城址碑と後ろに見える関門海峡 門司城は最初、源氏との合戦に備える為、平知盛が寿永3年(1184)かその翌年に長門国目代紀井通資に築かせたという。だが、眼前で行われた壇ノ浦の合戦は源氏の勝利に帰し、逆に鎌倉時代の寛元2年(1244)には、平家残党鎮圧の下知奉行として豊前国代官職に任ぜられた下総前司親房が下向し、その本拠地として使われたという。親房は、父が鎮西奉行を務めた中原親能の養子であったことから、大友氏の祖となった能直を始めとする親能の養子らと同様に、西日本に基盤を持てたのだろう。
 親房は藤原や下総を名乗ったともいわれ、祖父との関係から中原を称したこともあったのではないだろうか。ともかく、親房の子孫は門司一帯の6ヶ郷を支配して門司へと名乗りを変え、多くの庶族を輩出したが、南北朝時代になると同族で2つに分かれて争ったようで、門司城主であった親尚が南朝方を退けたという史料がある一方、南朝方として見える親頼などが滅ぼされている。
 室町時代になると、北朝方の九州探題今川了俊貞世を支援して勢力を拡大した周防の大内氏が九州に影響を及ぼすようになり、門司氏はこれに従ったようだ。門司氏は眼下の関門海峡の海上交通を掌握する上で重要な存在であり、大内家中でもそれ相応の待遇を受けたと考えられ、大内氏の財力の根源となった対明貿易では船頭として活躍していることから、大内氏の水軍として活動していたらしい。
 戦国時代に入る前から、北九州は豊後の大友氏と筑前の少弐氏が、周防から勢力を伸ばしてきた大内氏と対立するという構図となっていたが、やがて戦国時代に入ると大内氏が少弐氏を肥前へ追った為、筑前や豊前に限っては大内家対大友家という構図へ変化した。やがて、両家は婚姻を結んで和睦し、北九州に比較的安定した時代が訪れたが、大内義隆が天文20年(1551)に陶隆房(晴賢)の謀反によって滅亡すると、再び情勢が動き始める。弟晴英(義長)を大内家当主として送り出し、大友義鎮は晴賢と結んだが、同24年(1555)に晴賢が厳島の合戦で毛利元就に敗れるなど情勢は安定せず、その間に北九州の旧大内領を掌握することに成功し、門司城も大友氏が支配した。しかし、本州の旧大内領をほぼ併呑した元就が、かつての大内家と同様に北九州進出を目指して大友氏と争うようになり、永禄元年(1558)には城が毛利氏の手に落ちている。これ以降10年以上に渡って10数回に及ぶ合戦があったが、特に永禄4年(1561)の門司城合戦は激戦であったという。この争奪戦の頃の城将としては、大友家臣として怒留湯主水、毛利家臣として冷泉元豊や仁保隆康などが見え、小早川隆景も一時入城しているほか、城の奉行として門司親胤という門司氏の末裔の名もある。
 毛利氏と大友氏が和睦した後、門司城は毛利氏が支配したようで、秀吉の九州征伐前年の天正14年(1586)には、毛利方の門司城と島津氏に与した高橋元種の小倉城の間で戦端が開かれている。この九州征伐によって九州は群雄割拠の時代が終わったが、城は以後も海峡を押さえる重要な城として存続し続けたようで、小倉城に入部した毛利勝信の属城となったのかもしれない。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には、豊前を領した細川忠興の支配する城となり、門司城には姻戚の家臣長岡延元を城代として配した。だが、豊臣氏の滅亡によって懸念する勢力が無くなった幕府は諸大名の統制を強め、元和元年(1615)に一国一城令を発布し、門司城も廃城となった。
 現在は和布刈公園の一部として遊歩道も整備され、途中までは車で登ることができる。城址碑は本丸のあった頂上にあり、歴史を記した石碑が途中の遊歩道にあるが、近世には海軍の監視施設があったようで、頂上にトーチカのようなコンクリート製の砲台跡と、そこから塹壕で繋がる少し下った場所に弾薬庫か兵舎のような建物があって、本丸付近の遺構はかなりの破壊を受けているだろう。詳しく周辺を見てみれば、遺構として若干の石垣などが残っているが、明確に確認できるものは少なかった。