小倉城 所在地 福岡県北九州市小倉北区
北九州市役所北西200m
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/29
小倉城の復元天守閣 現在の小倉城は、九州で大友氏と激しい争いを繰り広げていた毛利元就が、永禄12年(1569)に北九州支配の重要な拠点として現在地に築城したという。要衝であった小倉にはそれ以前から城があり、その城は文永年間(1264-75)に緒方惟重が築城したとも、南北朝時代に菊池武光が築城したともいわれているが、現在残っている小倉城の直接の前身であったかはわからない。
 天文24年(1555)の厳島の合戦で陶晴賢を破った毛利元就は、大内氏の旧領を併呑して九州進出を狙い、筑前や豊前で大友宗麟と戦っていたが、小倉城が築城された年の多々良浜の合戦の敗戦を機に九州へは兵を繰り出さなくなり、次第に上方の織田氏に目を向けるようになる。そして、元就は、宗麟に対して叛旗を翻し、大友家を追放された高橋鑑種に小倉を与えた。鑑種は、その後も国人に働きかけて連合するなど、大友氏に対して盛んに活動するのだが、天正6年(1578)の耳川の合戦で宗麟が島津氏に大敗を喫すると、やがて島津義久の誘いを受けてこれと誼を通じている。
 島津氏の圧迫に悩む宗麟が上洛して秀吉に援護を請い、天正14年(1586)に九州征伐の前哨戦が開始されると、秋月家から養子に入って鑑種の跡を継いでいた元種はこれに対抗した。だが、毛利氏を中心とする秀吉軍の攻撃を受けて城は落城し、元種は香春城で降伏後、戦後に今の延岡である日向国県へ移されることとなる。そして、小倉城には秀吉の子飼いである毛利勝信が6万石で入部した。この勝信の手により、小倉城は近世城として改修されている。
 勝信はその後、朝鮮出兵でも軍功を挙げたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属した為に改易されてしまった。改易後は土佐山内家に保護されていたが、大阪の陣の際に土佐を脱出して豊臣方に付いたのが嫡男勝永で、勇将として真田幸村と並び称されることとなる。
 勝信改易後、小倉は39万石余で中津に入部した細川忠興の領地となり、忠興の弟興元が城主に据えたられた。しかし、この興元は兄と折り合いが悪く、また、大名になれなかったという思いもあってか、翌年に出奔してしまい、代わって忠興の次男秋興が城代を務めたが、結局は忠興自身が現在の城の形へ大規模な改修を行って居城としている。
 細川氏が寛永9年(1632)に熊本へ国替えとなった後、代わって小笠原忠真が播州明石より入部し、外様大名の多い九州の幕府拠点として幕末まで重視された。しかし、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、小倉藩が長州藩に敗れてしまった為、城に火を放って後退せざるを得なくなり、それ以後は香春藩として維新を迎えている。
 城は紫川西岸の台地上にあり、戦国末期の頃は低い平山城の形式であったと思われるが、大大名の居城として広大な近世城郭の城へと拡張された為、周辺の市街地と比べて高さがあまり変わらない、平城に近い形状となった。縄張は、本丸と松ノ丸、北ノ丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が囲み、東を紫川、西南北を堀によって防御し、更に北には響灘が広がっている。天守は五層六階で、最上部は破風のない黒塗りの張り出しである南蛮造りで、当時は唯一のものであったが、天保8年(1837)に失火で焼失し、再建はされなかった。ちなみに、現在の復元天守は姫路城などの形を部分的に取り入れている為、旧来の外観とは違っている。その他では、細川忠興の自慢であったという野面積の長大な石垣が残っており、未だ堂々たる風格を備えていて迫力があった。
細川忠興の自慢だった野面積の石垣は増築の跡がある 長州征伐での焼失後、藩庁が香春へ移ったことで城は復興されず、城地には明治31年に陸軍第12師団司令部が置かれ、戦後は米軍に接収されている。この接収の解除後、ようやく勝山公園として整備され、昭和34年に市民の要望によって模擬天守が建てられた。
 八坂神社から城へと入ると、石垣や堀が迫り、いかにも城という趣があってなかなか良い。その先の天守が旧来と違うのはやや残念なところだが、それでも城としての雰囲気は十分だった。周辺には、北九州出身の松本清張の記念館や藩主小笠原氏の礼法に関する展示がある小笠原会館もあり、それらを巡るのも面白そうだ。