蒲池城 所在地 福岡県柳川市
西鉄蒲池駅西1.7km国道385号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2014/10/19
唯一城を示すものである城址碑 筑後最大の国人であった蒲池氏発祥の城。
 蒲池氏の出自についての説は様々で、九州古族の多氏という説や、藤原純友の弟純乗の流れという説、純乗に対抗した橘公頼の流れという説などがある。これは、平安時代に見える蒲池氏、所謂祖蒲池氏の話であり、蒲池城築城伝説とも絡む話で、天慶2年(939)に純乗が城を築城して根拠地にしたという伝承や、純友を討伐するべく公頼かその子敏通が同じ頃に築城したという伝承からだろう。しかし、鎌倉時代に見える蒲池氏、所謂前蒲池氏に絞ると、神埼荘の荘官として土着した嵯峨源氏流の源満末の子か孫で、源平の合戦で源氏に味方して蒲池荘の地頭となった源久直がその祖という説が有力である。
 鎌倉時代の蒲池氏は、承久3年(1221)の承久の乱後と思われるが、後鳥羽上皇方として活動した当主行房の跡を、同じ嵯峨源氏で松浦党の流れを汲む源圓(三圓)が養子となって継いだことにより、松浦党との繋がりが濃くなり、以降は松浦党の一派として元寇等にも参加した。しかし、南北朝時代の建武3年(1336)に南朝方として多々良浜で戦った当主武久が討死した為、しばらくの間は武久の娘が家を守り、やがて宇都宮久憲が蒲池氏の名跡を継ぐこととなる。この久憲以降を、一般に後蒲池氏と呼ぶ。
 なぜ宇都宮氏から久憲が入ったかというと、前述の行房には宇都宮氏出身の室がいることから、古くから蒲池氏と宇都宮氏は婚姻を重ねて姻族になっていたと思われ、その関係からのようだ。また、養嗣子として家を継いだ圓には子がなかったが、母方の宇都宮姓を名乗っていた行房の子久氏が圓の養子に入って蒲池氏に復しており、このような前例があったのも要因のひとつかも知れない。また、南朝に属していた久憲は、元々は伊予宇都宮氏の系統であったことから筑後に領地を持たず、南朝方の衰退もあり、筑後で勢力を維持する為にはいずれかの領地を得る必要があったという現実的な問題も絡んでいたようだ。
 久憲は、後に北朝方であった大友氏に属して筑後一帯に一族を扶養したほか、応永年間(1396-1428)に城郭を拡張して城下町を整えて勢力の基礎を築いたとされ、その後も蒲池氏は代を重ねながら次第に勢力を拡大させて行き、やがて大友配下の有力国人となった。この頃の蒲池氏の勢力は、筑後に分立する国人衆の中でも最大で、筑後十五城の旗頭と呼ばれたという。しかし、力を持ちすぎたことによって大友氏に警戒されたようで、柳川城を築城したことで知られる治久の子鑑久の時に弟親広が別家を立てて蒲池家は上下の2つに分けられたほか、天文年間(1532-55)に毎年8月1日に行われる大友氏の本拠豊後府内での忠節行事を怠って斬られたとも伝わる鑑貞は、鑑久自身の事だったともいわれる。
 だが、その後も蒲池を本拠とした下蒲池家は衰えを見せず、鑑久かその子鑑盛の頃に柳川へ本拠を移して隆盛し、鑑盛は「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と謳われるほどの堅城に改修した。また、鑑盛は大身たる余裕もあってか、義心は鉄の如しとまで称された武将でもあり、天文14年(1545)には馬場頼周など少弐家臣に一族を滅ぼされた龍造寺家兼を、同20年(1551)には家臣土橋栄益らに追われた家兼の曾孫隆信を保護している。そして、天正6年(1578)の耳川の合戦では、嫡男鎮漣(鎮並)が主力を率いて柳川城へ帰城する中、自らは忠義から病身を押して敗戦濃厚な戦いで奮戦し、討死した。
 戦を前に柳川へと帰城した鎮漣は、室の玉鶴姫が隆信の娘であったことから、耳川の合戦後は龍造寺氏に接近したが、やがて隆信の冷酷さに危険を覚えて離反し、天正8年(1580)から翌年に掛けて柳川城を包囲されている。しかし、柳川城は堅城で落ちなかった為、隆家は鎮漣と一旦和議を結び、その後に佐嘉での宴席に招いてこれを謀殺し、柳川城やその支城にいる蒲池一門の討伐を同時に命じた。これによって蒲池氏の嫡流は滅ぶのだが、これら一連の流れの中での蒲池城の動向は不明である。ただ、柳川城の至近であることや、肥前からの進軍路に近いことから、柳川城の攻防で重視されたのは間違いないだろう。
 蒲池氏の滅亡後、柳川城には鍋島直茂、次いで龍造寺家晴が城主となったが、ここでも蒲池城の動向は不明である。天正15年(1587)の秀吉による九州征伐後は、立花宗茂が柳川に封ぜられ、重臣小野鎮幸が蒲池城主となって立花五城主のひとつとなった。立花氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属し、本戦の決着後に柳川城周辺一帯で鍋島勢らと合戦を行っているが、この蒲池一帯でも戦いが行われており、この頃まで城が存在したのは確かだろう。関ヶ原の合戦後は、柳川に田中吉政が入り、領内開墾や蒲池付近を通る田中街道が整備され、柳川城の支城も積極的に田地にしたとの話も伝わることから、田中時代の早い段階で廃城になったと思われる。
 城跡は、蒲池氏の菩提寺である崇久寺の付近一帯がそうであるが、遺構の類は見られず、寺のやや北西に巨大な城址碑があるのみだった。佐賀から柳川にかけての有明海沿岸一帯は水路の多い地区で、開墾なども盛んであったことから、遺構も崩されたり改変されたりしてすっかり無くなってしまったのだろう。すぐ横では、国道の付け替え工事がされている最中で、工事中に発掘調査などが無かったのかは気になるところではあるが、現地の様子からは、城址碑を眺めて往時の姿をなんとなく勝手に想像するぐらいのことしかできない。