柳ヶ瀬トンネル
区間  福井県敦賀市
  〜滋賀県長浜市
最終訪問日  2010/10/11
 明治17年4月16日に開通した当時の北陸本線の鉄道トンネルで、平成15年に土木学会選奨土木遺産にも選ばれている。全長は1352m。
 昭和32年に北陸本線が深坂峠経由に変更された後も柳ヶ瀬線として使われ、同39年に廃線となった後は車道トンネルに転用された。開通当初は日本最長の鉄道トンネルであり、現在は現役のトンネルとして2番目に古いという。ちなみに、併走する北陸道のトンネルも同名である。
 北陸本線は、北陸米を京都大阪の市場に輸送することを主目的として計画されたが、当初の東海道線が長浜と大津の間を水運で代替したように、金ヶ崎と長浜の間をまず建設して長浜と京都大阪、金ヶ崎と北陸各都市の間は水運で代替するという予定であった。そして、明治15年3月10日に長浜〜柳ヶ瀬間と洞道口〜金ヶ崎間が開通したが、この柳ヶ瀬トンネルの部分は工事が難航して遅れ、当初は徒歩による連絡であったという。トンネルが開通したのは、2年後の同17年4月16日で、これにより長浜から金ヶ崎までが鉄路で結ばれたが、この区間は敦賀線と呼ばれ、明治42年まで所管としては東海道線の支線であった。
 柳ヶ瀬トンネルを含む周辺の区間は、トンネル滋賀側出口の雁ヶ谷付近を最高所とした急勾配であり、補助機関車を連結して運行していたが、それでも雪や凍結などによる車輪空転などでしばしば列車が走行不能に陥ることがあったという。特に昭和3年12月の窒息事故では、トンネル内で貨物列車が走行不能となって煤煙が充満し、窒息した乗務員に死者が出るという惨事となった。これは、柳ヶ瀬トンネルが鉄道建設初期のトンネルである為に断面積が小さく、煙が拡散しないというのも一因であったようだ。そして、このトンネル事故が契機となり、輸送量の拡大と安全性の観点から、現在の線路である深坂峠経由の新線が計画されるに至ったのである。
 現在の柳ヶ瀬トンネルは、大型車や自転車、歩行者などの通行は許されておらず、言わば、普通自動車と軽自動車と自動二輪車の専用トンネルと言えるだろうか。そのせいもあって、通勤などで自動車やバイクを使う人にとっては大型車も通らない便利な道となっており、迂回路としてよく使われているようだ。元々単線の鉄道トンネルということもあって、トンネル内部ですれ違いが難しく、信号による交互通行となっているのだが、トンネル手前で信号待ちをしていると、ただ待っているだけの手持ち無沙汰な時間が流れ、往時の乗客も同じように風景も変わらない手持ち無沙汰の時間を持て余していたのだろうかと思うと、なんだか面白い。トンネル内部は独特で、横壁の下の部分が石積みでできており、なんだか道路部分だけが高くなっているような錯覚を覚える。天井はコンクリートだったが、往時はレンガでアーチを造っていたとされ、補強と剥落防止のために上からコンクリートを塗られたものだろう。天井まで往時のままであればもっと往時の雰囲気を味わえるのだが、現役である以上、安全が第一なので仕方の無いところだろうか。
 トンネルの双方の入口には、それぞれ伊藤博文による萬世永頼の扁額と柳瀬洞道碑が置かれているが、同じものが現長浜駅のすぐ近くにある旧長浜駅舎の前にもあり、同じ扁額と碑が両方の入口に備え付けられていたようだ。碑に記された文は漢文だが、旧長浜駅舎のところには訳文が説明板に書いてあり、書を撰した村井正利という技師の思いが伝わって来るようである。その中でも、「嗚呼この鉄路成りて南北一貫し、京畿北陸を一日を以って往還すべし。行者は齎装(セイソウ)の苦無く、居者は転輸の便あり、工業は益(マスマス)隆(オコ)り、而して物産は愈(イヨイヨ)阜(サカン)なり。」という部分に、国家が興隆していく明治時代の技師が持っていた、事業に対する誇りと使命と熱意が非常に感じられ、心に響くものがあった。