天筒山城 所在地 福井県敦賀市
JR敦賀駅北1.7km国道476号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2010/10/11
本丸跡に建つ展望台 戦国時代、敦賀郡の首城であった金ヶ崎城から峰続きの南東側にあった城で、金ヶ崎城と一体的に機能していた城。ちなみに、信長関係の史料には手筒山城と書かれている。
 海岸から北西方向へ向かって海に突き出したところにあった金ヶ崎城に対し、天筒山城はその陸地側の展開拠点とも言える場所で、金ヶ崎城の枝城や出城と呼ばれることもあるが、こちらのほうが標高が高く、この地を押さえられると金ヶ崎城は立地的な優位さを失うことから、恐らく戦略的価値は金ヶ崎城よりも高かったのではないだろうか。
 この城が有名になるのは、元亀元年(1570)の織田信長による越前攻略戦と浅井長政の寝返りによる一連の争乱、つまり金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いの端緒においてである。だが、南北朝時代の金ヶ崎の戦いや室町時代の越前守護斯波義敏と守護代甲斐常治の対立の際にもこの一帯は戦場となったらしく、金ヶ崎城に対する攻撃拠点として、城が築かれる以前からその重要性は認識されていたようだ。
天筒山城から金ヶ崎城を望む 元亀に改元して間もない4月25日、近江から若狭に侵入した織田軍は、越前の入口である敦賀攻略に取り掛かり、天筒山城を一斉に攻撃した。金ヶ崎城主朝倉景恒も、天筒山城主寺田采女正を救援すべく出陣し、両軍合わせて数千の死傷者が出たというほどの激戦となったが、結局は数で勝る織田軍が天筒山城を攻略する。すると、要害の地を奪われた景恒は、朝倉本隊の援軍来着が遅れたこともあって防戦の困難を悟り、翌日に金ヶ崎城を開城して軍を退いた。だが、織田軍優位の状況がここで大きく転換する。突然、信長と同盟していた浅井長政が朝倉側に寝返り、軍を発したとの報せが入ったのだ。このことを知った信長は、逸早く僅かな近習のみを連れて朽木谷経由で京へ逃走し、指示も無いまま主力部隊は越前に取り残されてしまう。この時、主力部隊の退却戦の殿軍を務めたのが木下藤吉郎秀吉で、徳川家康と協力して退却を成功させ、出世の糸口を掴んだといわれている。ただ、これには諸説あって、殿軍の主力を担ったのは摂津の池田勝正だったという説もあり、史実と逸話がこんがらがっている部分もあるが、豊臣政権期に秀吉が家康に対し昔話として語ったとされていることから、秀吉と家康が殿軍の中にいたのは間違いないようだ。
遊歩道に残る堀切跡 天筒山城の築城や廃城時期ははっきりせず、歴史上にはこの越前攻略の時以外あまり出てこない城である。現在は公園として遊歩道が整備されており、朝早くに登ったが、恐らく日課として登っているであろう方も多かった。中腹から西へ向かう遊歩道沿いや頂上の北東側には堀切や土塁、郭といった遺構も残っており、当時の姿を偲ぶことができる。頂上部はかなり整備の手が入って公園化しており、展望台からの眺めはすばらしい。この辺りが、もし当時の削平地をそのまま利用したものであれば、相当な規模の城になるのだが、実際はどうなのだろうか。