高浜城 所在地 福井県高浜町
JR若狭高浜駅北1.5km城山公園周辺
区分 平山城・海城
最終訪問日 2009/4/18
本丸跡にある城址碑と説明板 永禄8年(1565)に若狭守護武田家の有力家臣逸見昌経が築城したと伝えられる。
 逸見氏は、主君である若狭守護武田氏と同じ甲斐源氏の出で、武田氏初代信義の兄逸見光長が祖という。また、信義の系からも逸見姓を名乗る者がいたらしい。そして、鎌倉時代から室町時代にかけては、いわば甲斐源氏惣領の証である甲斐国守護職を武田氏から奪わんとする有力一族であったが、結局守護にはなれなかった。
 昌経の祖は、安芸武田氏が宗家から分出した時に付き従った逸見氏の裔と思われ、武田氏が若狭守護職を得た後は、京や若狭、丹後で逸見を名乗る武田氏の家臣が活躍しており、昌経はこれらの直接の子孫だろう。
 戦国時代の武田家臣逸見氏の動向としては、同じく有力家臣であった粟屋氏のような大規模なものはなかったが、永正14年(1517)に非本流と思われる逸見庶家が叛乱しており、更に天文7年(1538)には昌経が謀叛を疑われている。だが、昌経の場合は庶家と違って若狭西部に相当な力を持っていたようで、武田氏も迂闊に手を出せなかったようだ。その後、昌経は武田信豊の有力家臣として仕え、信豊とその子義統が争った際には義統、次いで信豊方に味方し、義統を援助した朝倉軍と戦っている。また、後に義統と、義統の子元明を擁立する勢力が戦った際には、元明に与して再び義統を援助した朝倉軍と戦った。
 この信豊と義統が争った永禄4年(1561)、前述のように昌経は内藤宗勝こと松永長頼と組んで朝倉軍と戦っているのだが、この時に居城砕導山城が落城してしまった為、水軍を意識して海際に新たに築いたのが高浜城である。峻険な地形の多い若狭では、最初の平山城であるともいう。ただ、築城翌年の永禄9年(1566)には、その水軍が義統の編制した水軍に敗れてしまい、高浜城も一時義統方に奪われている。
本丸下の堀切とそれに架かる木橋 永禄11年(1568)、武田家を後援していた朝倉氏は、統制力を失った武田氏に対し、ついに当主元明を保護と称して越前に連れ去り、若狭を実効支配した。これにより、武田旧臣は朝倉家か将軍義昭を擁する織田家に服属することを余儀なくされるのだが、昌経は織田方に味方し、天正元年(1573)の朝倉家滅亡後は、若狭に入部した丹羽長秀の与力となっている。
 逸見家は、昌経が天正9年(1581)に没すると改易となり、祖が同じ逸見氏の出ともいわれる溝口秀勝が城主を受け継いだ。そして、長秀の没後は丹羽家の所領が漸減し、若狭には秀吉に近い武将が封じられ、高浜は堀尾吉晴や山内一豊、木下利房が領している。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、小浜に入った京極高次の家臣で若狭守護武田元明の子という佐々木義勝が城代を務め、京極家が出雲松江に転封となって酒井忠勝が小浜に入った寛永11年(1634)に廃城となった。
 城は、海に突き出た小山に築かれており、規模はそれほど大きくないものの、三方を海に落ちる絶壁としているので、その防御力は高かっただろう。昌経は水軍を持っていたので、それを最大限生かせる立地と構造である。小さな本丸がある山の最上部には、やや盛り上がった櫓台と思われる場所があり、本丸の周りには帯郭も存在し、帯郭の先の海側は断崖となっていた。この断崖は、足を滑らせれば海まで転がり落ちそうなぐらい急なもので、海からの上陸は不可能だっただろう。また、本丸を画していたと思われる堀切跡は、現在は遊歩道になっており、橋が架かっている。橋を渡ったところが二ノ丸とするには狭すぎるのだが、当時どのような様子だったのかは不明で、もう少し広かったのかもしれない。橋を渡って階段を下りたところにやや広い削平地があり、ここが三ノ丸だろうか。その他の遺構としては、麓の城山荘の前には台状の太鼓櫓跡があり、また、本丸には僅かながら石垣の跡らしき石積もあったが、これら近世城らしい遺構は、秀吉政権樹立の頃から江戸時代初頭までに整えられたものだろう。
城跡から見る日本海の夕景 現在は城山公園となっており、公園を造成したにしては不自然に思える所々の小さな平坦地が、公園の一部として活用されている郭跡だとすると、当時の縄張が解りやすい。付近には名勝である明鏡洞もあり、普通に散策しても十分目を楽しませてくれるだろう。印象的だったのは砂浜で、もう夏は過ぎたのにやたら止まっている車が多いなと思っていたら、海水浴場にわんさかサーファーが繰り出しており、まるで渡り鳥が波間に羽を休めているようだった。渡り鳥が毎年決まった頃にやってくるように、この辺りでは初秋の風物詩なのかもしれない。