杣山城 所在地 福井県南越前町
JR湯尾駅東2.5km
区分 山城
最終訪問日 2010/10/11
杣山城本丸の全景 北陸道を睨む杣山にあった城で、土豪瓜生氏の居城だが、伝承では大和源氏の祖となった源頼親が平安時代中期に築いたともいう。
 瓜生氏入部以前の杣山一帯には3千もの寺坊があり、地名も飽和庄と呼ばれていたようだが、越後国三島郡瓜生郷から瓜生衡が地頭となって入部した時に杣山庄と改めたらしい。
 瓜生氏は、鬼退治で有名な源頼光配下の四天王のひとりである渡辺綱の裔で、一字名からわかるように嵯峨源氏である。衡の4代前の定が越後に移り、その孫で衡の祖父である種が前述の三島郡瓜生郷に住して地名を名字としたが、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について没落したという。
 建武政権期の当主は衡の子保で、当初は足利尊氏に属したが、建武3年(1336)から翌年にかけて金ヶ崎城に籠城した新田義貞に味方し、その後詰として敦賀に向かう途中に今川頼貞と戦って弟義鑑と共に討死した。その後、金ヶ崎城を脱出した義貞が、この城に籠もって南朝軍を再編するが支えきれず、更に北へと転戦している。
 その後、足利一族の斯波高経が越前からの南朝勢力一掃に活躍して守護となり、やがて幕府重鎮として威を振るったが、2代将軍義詮に疑われ、貞治5年(1366)に京からこの杣山城に引退した。これは、貞治の政変と呼ばれる出来事で、幕府は追手を差し向けたが、高経は翌年に病死し、義詮が没した後には子義将が幕政に復帰している。
 室町時代の守護は大抵そうであるが、斯波家の当主もほとんど在京しており、室町時代を通して、この城は守護代甲斐氏の拠点のひとつとして機能した。やがて甲斐氏は、在地勢力として力を蓄え、守護に匹敵する力を持つようになる。城の説明文には、斯波氏家老増沢祐徳が城主になったとあるが、祐徳も実質的には甲斐氏の家臣のような立場にあったようだ。しかし、その甲斐氏も、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱での両陣営の駆け引きから朝倉孝景と激しく争うこととなり、やがて武生の守護所を追われてしまう。そして、越後での主導権を失った甲斐勢は拠り所としてこの杣山城に籠ったが、ここも文明6年(1474)の日野川の合戦で敗れて落城すると、この年の内に甲斐氏は越前での拠点をほぼ失い、朝倉氏の越前守護代としての地位が確立した。
杣山城案内図 その後の戦国時代後半頃の杣山城の事跡は詳らかではない。現地の碑には朝倉家臣河合宗清が居したあるが、朝倉氏の滅亡時に討死した河合吉統の首が織田方に河合安芸守のものと記されていることや、宗清が安芸守だったことを考えると、刀根坂で討死したという宗清は吉統のことだろう。また、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574)に一向一揆が籠もったという記録が残っているが、一揆勢が籠る以前の城は、朝倉氏滅亡に伴って廃城もしくは空城となっていたのか、それとも誰か入城していたのかは不明で、最終的には、織田信長による一向一揆の掃討で完全に廃城になったようだ。
 城は、北国街道を眼下に見下ろす標高492mの杣山の中腹より上に築かれており、山頂の本丸と東側の二ノ丸という大きく2つの郭があるが、この主郭部にはそれ以外にも、境目が曖昧になっているものも含めて各峰筋に小さな段郭がいくつか確認できた。尾根筋で繋がる東西にも本丸から離れて御殿と呼ばれる削平地があり、その他にも台地や落城時に女衆が飛び降りたという袿掛岩などの場所がある。ただ、防御的な面で見ると、東西の御殿はあくまで御殿、つまり大きな削平地といってもあくまで平時の場所であり、袿掛岩と西御殿の間に複数の大きな段状の郭や馬場のような平地、櫓台と思しき台状の地形が設けられているなど、御殿自体はあまり重要視されていなかったようだ。
 この袿掛岩と西御殿の間にある場所は見所が多いのだが、西御殿の案内図では台地という場所に見えるものの、登山道入口の図では台地は別の場所のようで、どこにあたるかは判断できなかった。これ以外では、登山道沿いに複数の堀切や土橋、武者走りのような地形があり、また、殿池と呼ばれる水之手もきちんと残っている。ちなみに、この殿池の水量は年中一定という。また、杣山の北麓に目を向ければ、堀とした阿久知川があり、川沿いに一ノ木戸、二ノ木戸、武家屋敷跡の表示があるほか、谷の奥の土塁に囲まれた居館跡も確認できる。全体としては、戦国時代中後期の事跡が不明ということもあり、急峻な山の頂上に詰城を築き平時は谷筋に延びた居館で生活するという、典型的な中世の城といえるだろう。
西御殿の削平地と碑 最初に訪れた時は、麓の木戸跡や居館跡周辺を散策し、中腹まで伸びている車道の終点まで登ったものの、時間と天気の関係で城跡に行かなかったが、9年振りに訪れた2度目は城跡まで登ることが出来た。一部つづら折りの階段があるなど、山容は峻険だが、西御殿まで到達するとそこからは険しさが和らぎ、本丸にかけてはなかなか見所も多い。標高や道程が中高年登山家にとっては程よい山になっているようで、杣山に登山した後、麓にある温泉で体を癒して帰る人も多いようだ。ただ、自分が登った時は誰一人として出会わず、静かな古城の姿だった。