大野城 所在地 福井県大野市
JR越前大野駅西1.2km
区分 平山城
最終訪問日 2001/9/14
野面積の石垣越しに天狗櫓と天守 大野城というのが他にもある為、区別して越前大野城と呼ばれることが多い。また、亀山に築かれているので亀山城という名もある。
 戦国時代の大野には土橋城があり、大野郡の郡司として朝倉景鏡などが居城し、一帯を支配していた。信長によって朝倉義景が天正元年(1573)に滅ぼされた後、信長方に寝返った景鏡も直後に一向一揆に滅ぼされたが、その一向一揆が徹底した信長の弾圧によって平定されると、同3年(1575)に大野郡の3分の2は武功のあった金森長近へ与えられることとなる。大野城を築城したのはこの長近で、築城した年ははっきり確定されていないが、この年か翌年のことと考えられているようだ。
 長近は柴田勝家の与力であったが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦後は秀吉に降伏し、その一軍として飛騨を平定後、高山に小京都と呼ばれる町並みを造った。長近が高山に移った後の大野城は、青木秀以が城主となり、長谷川秀一の属城を経て、文禄元年(1592)からは織田信雄の子秀雄が入部していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍についた為に取り潰され、越前福井に入った結城秀康の所領となって土屋正明、小栗美作が城代を務めている。その後、慶長20年(1615)の大坂の陣で功を挙げた秀康の三男直政が、兄忠直の隠退によって大野藩を立藩し、同じく弟直基、そしてさらに弟直良、その子直明と受け継ぎ、天領を経て天和2年(1681)に土井氏が入部して維新まで続いた。
 城は、野面積みの石垣に、二層三階の大天守と二層二階の小天守、天狗櫓を置き、城主の生活空間と防衛機能を重視した山上郭と、政庁の機能を備えた山下郭に大きく分けられ、典型的な近世平山城として形式を持つ城である。そして、城を二重の堀で囲い、東には短冊状に区切った城下町を形成していた。この現在も残る町並みは、長近の頃にほぼ原型が定まっており、同じく長近が整備した小京都として名高い飛騨高山の街並みの祖型は、この大野にあるとも言えるかもしれない。また、長近は千利休や古田織部に師事した茶人としても有名で、戦国時代を生きた武功の士ではあるが、風流人として、または内政家としての一面が、趣ある城下町に表れている。
縄張図 亀山公園には、現在でも野面積みの石垣が健在で、山をうまく利用した石垣の構成は優美な形をしており、明治6年の廃城令で廃城となったものの、昭和43年に金森氏や土井氏に関する資料館を兼ねた天守閣が再建されており、それなりの雰囲気があった。この天守から城下町も一望でき、また、遊歩道の入り口には搦手門も復元され、夜間には天守のライトアップもあって、江戸時代の面影を残す城下町とともに町の重要な観光資源となっている。公園の登城ルートは複数あり、江戸時代に使われていた道は急峻だが、新たに整備されている遊歩道はそうでもないので、当時の気分を味わいたい人も足に自信がない人も楽しんで散策できる城だ。