後瀬山城 所在地 福井県小浜市
国道27号線後瀬山トンネル付近
区分 山城
最終訪問日 2001/9/13
本丸大手の階段と石垣 大永2年(1522)若狭守護武田元光により築城された、若狭武田家の居城。
 若狭の武田氏は、清和源氏である甲斐源氏本流武田氏の庶族である。承久3年(1221)の承久の乱の功で甲斐守護武田信光は安芸国の守護職も得、南北朝時代の当主信武も足利尊氏に従って両国の守護職に補任された。信武は長子信成に甲斐守護職を、次子氏信に安芸守護職を与え、氏信の子孫は安芸武田氏となったが、その4代信繁の子信栄が足利義教の命で永享12年(1440)に一色義貫を討伐し、一色氏の持っていた若狭守護職を得たのが若狭武田氏の始まりである。信栄の後、弟の信賢、国信が引き継ぎ、国信の子孫が若狭武田家となったが、後瀬山城を築いた国信の孫元光の時には、全盛期を過ぎて若狭支配に陰りが見え始めていた頃であった。築城の背景には、このような情勢の不安定化の要素が少なからずあったのだろう。
 その後の武田氏は、元光から信豊、信豊から義統への家督相続時にそれぞれ内訌があり、有力家臣であった粟屋氏や逸見氏の叛乱などもあって勢力を衰えさせ、隣国越前の朝倉氏の助力でようやく支配体制を維持している状態にまで落ちぶれている。そして義統の子元明が家督を継ぐと、永禄11年(1568)に朝倉義景は後瀬山城を攻め、降伏した元明を越前に連れ去って実質的に若狭の大部分を支配した。
 天正元年(1573)、信長によって朝倉氏が滅ぼされると、越前に連れ去られていた元明は信長に赦されて若狭へ帰国したが、すでに若狭は丹羽長秀に与えられており、いくばくかの所領を得たに過ぎなかったようだ。そして、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死すると、勢力回復を目指して明智光秀に味方し、近江へ侵攻して佐和山城を攻略したが、山崎の合戦で光秀が敗れると長秀に追討され、自害させられている。
 朝倉氏滅亡後に若狭を与えられた丹羽長秀は、長浜城と播磨姫路城を本拠にした秀吉や坂本城と丹波亀山城を本拠にした光秀と同じように、若狭を領しつつ近江佐和山城を居城としていたようで、若狭のほぼ中央に位置する後瀬山城も支配拠点として機能したはずだが、現在残っている石垣などの遺構が構築されたのは入部からかなり経った天正10年(1582)のことという。天正4年(1576)には安土城築城の奉行を務めたり、本能寺の変の際には本願寺退去後の大坂城番を務めていたことなどから、遊軍的な存在で腰を据えることができなかった為かもしれない。
 長秀は、本能寺の変後に秀吉を支持し、累進して123万石余を領したが、天正13年(1585)に跡を継いだ嫡子長重は、警戒された秀吉に領地を取り上げられ、越前北ノ庄城から一時はこの後瀬山城主を経て最終的には加賀松任4万石にまで減封された。丹羽氏の後には、浅井長吉(長政)、次いで木下勝俊が城主となったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前、勝俊は西軍に真っ先に攻撃される伏見城の守備を放棄して逃亡した為、戦後は改易され、京極高次が代わって小浜に入部する。高次は一旦後瀬山城に入ったが、翌年から小浜城を築き、役目を終えた城は廃城となった。
城全体の構造と遊歩道 城は、168mの後瀬山の山頂を本丸とし、そこから延びる尾根伝いに北へ16段、西南へ18段の小郭を配して防備を固め、山麓の小浜小学校辺りに武田氏の居館があったという。現在でも本丸へ向かう途中には小郭が確認でき、石垣や階段が良好に残っている。また、西側には大きく4本の竪堀が掘られ、特徴的だ。
 昔、国道27号線を何気なく走っていて、後瀬山トンネルという文字を見つけ、おお、ここかと強烈に思ったのが今でも記憶に残っている。城へは、国道のすぐ脇にある愛宕神社から登山道が整備されているが、峻険な個所が多く、岩肌が露出しているところも多いので、苔などで滑りやすい。だが、標高がそれほどないので、登るのにそれほど苦労はしなかった。