丸岡城 所在地 福井県坂井市
北陸道丸岡I.C.北西1.3km
区分 平山城
最終訪問日 2012/5/13
丸岡城鳥瞰図 天正3年(1575)、信長は越前の一向一揆を討伐する為、大軍を派遣して組織的な抵抗を瞬く間に崩壊させ、この城の東方4kmにあった豊原寺も制圧し、寺坊を焼き払った。越前を平定した信長はこれを柴田勝家に与え、北ノ庄に自ら縄張りして築城させ、越前支配の首城にするよう命じたという。
 越前に入った勝家は、姉の子で養子となっていた勝豊に、一向一揆の拠点であった豊原の地に城を築かせたが、勝豊は城下の発展を考えて天正4年(1576)に交通の要衝でもある丸岡へ拠点を移し、新たに城を築いた。これが丸岡城の始まりである。戦がある度に大蛇が現れて霧で城を隠したという伝説を持つので、別名を霞ヶ城ともいう。
 天正10年(1582)の本能寺の変とそれに続く清洲会議の後、勝豊は近江国長浜へと転じ、代わって柴田家臣安井家清が城代となった。その後の勝豊は、雪で越前からの援軍が期待できない状況で同年末に長浜城を秀吉に攻められてあっさりと降伏し、翌年の賤ヶ岳の合戦直前に病死している。
 賤ヶ岳の合戦後、丸岡城には越前に封じられた丹羽長秀の家臣青山宗勝・忠元父子が入城したといわれるが、それは長秀の死によって秀吉に転仕した後の慶長年間(1596-1615)初期の話ともいう。ともかく、同5年(1600)の関ヶ原の合戦の時に丸岡城主であったのは間違いなく、西軍に属した為に青山氏は改易されている。
本丸から天守閣 関ヶ原の合戦後は結城秀康が越前に封じられ、その家臣今村盛次が城主となったが、盛次は同じく重臣であった本多富正と対立して慶長17年(1612)に久世騒動を引き起こし、その結果、盛次は磐城鳥居藩預かりとなるなど、家臣の今村派はこぞって藩を追われた。代わって、翌同18年(1613)に本多成重が、秀康の子忠直の附家老として丸岡に入部したが、この成重は富正の従兄弟である。一説に、成重を附家老に推挙したのは富正であったともいう。ただ、成重は忠直と折り合いが悪かったようで、忠直が乱行を理由として豊後に強制的に隠居させられた際、富正は秀康への恩義から独立の話を断って越前藩に仕え続けたが、成重は独立して丸岡藩を興している。
 以降、本多氏4代、有馬氏8代を経て丸岡藩は維新を迎えた。維新後は、廃藩置県で城が官有となり、翌年には民間へ払い下げられ、建物などは解体されたという。だが、天守だけは幸運にも朽ちるままとなりつつも残され、明治34年に町に寄贈された。
 現在は本丸跡だけが公園となり、取り残されたように天守閣が建っているが、往時は五角形の堀を有して外郭に武家屋敷を配置し、河川を利用して外堀を設け、寺院民家を包容する惣構えを持っていたといい、これらは本多氏時代に整えられたものである。堀の幅は最大約90mという相当幅広いものであったが、大正から昭和にかけて埋め立てられ、今では残念ながらその面影もない。天守閣は現存する12棟の中で最も古く、屋根を重ねない破風や黒板壁、傾斜のきつい階段など、天守閣初期の姿を色濃く残す二層三階の望楼式で、屋根瓦は石で葺かれ、全国にも稀な特徴を持っている。しかし、昭和9年に国宝に指定されたものの、同23年の福井地震で倒壊し、同25年に重要文化財の指定を受け、同30年に修復再建されたという苦難の歴史を持つ。現在は、再建の際に部材を再利用した為、倒壊後の再建だが現存扱いになっているらしい。
本丸の麓から夕日と天守閣 城を訪れてみると、非常にコンパクトな印象で、まるで天守閣だけが孤島として残っているような印象だ。その天守石垣の北東端に、一筆啓上書翰碑というものがあるが、これは、鬼作左こと本多重次が陣中から妻に宛てた、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」という有名な手紙の碑で、このお仙、つまり嫡子仙千代が、後の丸岡藩主の成重である。丸岡町は、短く秀逸な手紙と所縁がある町としてその文化を残そうと、1993年より一筆啓上賞という手紙のコンクールを開催し、これは全国的にも有名になった。そして現在は、新たに往復書簡を新一筆啓上賞として表彰している。