小丸城 所在地 福井県武生市
北陸道武生I.C.東2km
区分 平城
最終訪問日 2010/10/11
小丸城址碑 越前一向一揆討伐後の天正3年(1575)、佐々成政が味真野の扇状台地に築いた城。
 一向一揆討伐後、越前一国は柴田勝家の管轄となり、その与力となった前田利家、不破光治と同じく成政にも恩賞として領地が与えられ、その治所となる居城として築かれた。現在は開拓されて一面の田園となっているが、当時は50m四方の本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸が周りを囲み、その大きさは東西300m、南北450mの規模で、郭を区切る10〜30m幅の堀があったという。
 越前の国府は今の武生駅周辺で、成政は、利家、光治と共に、俗に府中三人衆と呼ばれていたが、在城期間は短く、天正9年(1581)には越中富山に移っている。しかも、その前年から越中掃討に駆り出されている為、実質的に築城に携わった時間は短かったようだ。このことから、未完成のまま移封で廃城になったという説が有力である。
本丸の城門に残る石垣 城跡として残っているのは本丸部分で、高さ約7mの高台であり、その周囲には堀だったと一見して判る地形が残っていた。本丸の一部には城門の石垣が残っているが、その上には多聞櫓があったのか、それともただ塀を渡していただけなのか、埋門の形となっており、上に大きな一枚岩が石橋のように架けられている。通路の幅から考えると、大手にしては狭過ぎることから搦手門か通用門だったのだろうか。大手門でないとすれば、塀が渡されただけの埋門の可能性が高そうである。地図を見ると、東西に鞍谷川と浅水川が流れており、これを天然の堀として活用していたと思われ、西にある街道や扇状地であることを考えると、大手は北か西に向いていたのではないだろうか。本丸跡からは周囲が見渡せるが、全くの平地という地形を考えると、戦時の防御力よりも平時の城下町の発展性を考えた城だったようだ。
本丸の周囲を囲う堀跡 城は北陸道武生I.C.の東側に広がる田園地帯にあり、杜のようになった城跡は遠目でも判りやすい。また、少し交通量のある道から離れていることもあってか非常に静かで、落ち着いて散策することができる。城跡付近には、大河ドラマ「利家とまつ」放映時に整備されたのか、案内板が多く、史蹟巡りの道順なども表示してあった。ちなみに、門徒が後世に伝えようとして、一揆に対する信長の苛烈な処置の様子を刻み付けた文字瓦がこの城跡から出土し、越前の里郷土資料館に収蔵されている。