勝山城 所在地 福井県勝山市
勝山市役所付近
区分 平山城
最終訪問日 2012/5/13
勝山城縄張図 九頭竜川の河岸段丘上にあった城で、柴田勝家の一族である柴田義宣の養子勝安が、一向一揆討伐後の天正8年(1580)に築いた城。
 勝山市街には、戦国時代に毛屋と袋田という2つの集落があり、袋田の集落に築かれた勝山城は袋田城とも呼ばれる。袋田には、義宣の頃に本拠村岡山城の支城として築かれた富田城があり、今の義宣寺の場所にあったという。勝山城はその富田城と同じく、河岸段丘の崖に石を積んで水害除けとした七里壁を利用し、大蓮寺川流域の沼地を防御力として取り入れた城であったようだ。従って、平地にあるようだが大まかには平山城、細かく見れば崖城という区分になるだろうか。ちなみに、義宣寺は勝安が養父義宣を弔って建立した寺である。
 その後、勝安は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で討死してしまい、柴田一門が没落した後、越前に入った丹羽長秀は成田重政を勝山城に置いた。天正13年(1585)の長秀没後、嫡男長重が丹羽家を継いだが、秀吉は丹羽氏の勢力削減を図り、難癖を付けて越前を没収した為、勝山城は越前東郷を領した長谷川秀一の属城となっている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、越前一国は家康の次男結城秀康に与えられ、勝山城にはその家臣林定正が城代となって入った。しかし、後に秀康の子忠直の時に重臣本多富正と今村盛次の対立である久世騒動が起こり、今村派に属した定正は山形最上藩預かりとなって追放され、慶長18年(1613)以降は上級家臣が瓦門番として交替で城に派遣されたという。そして、元和元年(1615)の一国一城令布告の際には、主のいない勝山城は当然のように破却されたようだ。
 若くして越前藩という大藩を継いだ忠直であったが、大坂の陣の論功行賞への不満から次第に乱行が目立つようになり、やがて元和9年(1623)には幕府から強制的に隠居させられ、越前藩は忠直の弟達や附家老によって分割される形となった。勝山には、翌寛永元年(1624)に秀康の五男直基が入って越前勝山藩が成立し、同12年(1635)には直基の転封に伴い、その弟直良が入って3万5千石を領している。ただ、勝山城自体は再興されず、城の跡地に陣屋などの居館が建てられたに過ぎなかったようだ。その後、直良も大野へ移封となり、勝山藩領は福井藩の預かりを経て天領となった為、政庁として使われなくなった城地はさらに廃れた。
 勝山城再興の動きが出てくるのは、元禄4年(1691)になって美濃国高須より小笠原貞信が入り、越前勝山藩が約2万2千8百石で復活してからである。貞信は、早速築城の許可を幕府に求めたが、実際に許可されたのは貞信の孫である2代信辰の時の宝永6年(1709)であった。だが、この貞信と信辰の治世は、大坂加番や築城工事などの財政支出や家臣対立などで安定せず、信辰による再築城工事も本丸を整備するのが精一杯だったようだ。信辰の後は工事が中断されたまま60年も再開できず、ようやく5代信房が当主だった明和7年(1770)に再開され、二ノ丸が整備されて御殿も二ノ丸に建てられた。そして、7代信貴の頃に二ノ丸北側の未完成部分が仕上がり、再築開始から120年を経てようやく城は完成に漕ぎ付けたのである。とは言え、天守閣は設けられず、蔀郭や東馬出は未完成であり、当初の築城計画通りではなかった。また、120年を掛けて整備した城であったが、長貴の没後僅か30年弱で明治維新を迎え、明治4年の廃藩置県で廃城、翌5年には建物類が払い下げられており、相当に儚い運命を背負った城であったようだ。
 城の構造は、北に注ぎ口を向けた急須のような形の本丸の中心に天守台を据え、急須の蓋方向にあたる本丸の東に二ノ丸、本丸と二ノ丸の南に三ノ丸を置き、それぞれを二重の水堀で囲った典型的近世平城である。防御の薄い本丸北側に蔀郭と、二ノ丸から続く東の外堀外側に東馬出を造る予定であったが、財政難で実現せず、二ノ丸の南、つまり三ノ丸の北東側に南馬出という水堀付きの丸馬出が設けられただけであった。案内板の縄張図を見ると、本丸に天守を含め4棟、二ノ丸に4棟の櫓を建てる予定だったようで、二ノ丸南側には内桝形の大手門が描かれている。
天守台があった場所に建つ城址碑 前回来た時は、遺構が無いことや天気の都合もあって素通りしたが、城址碑を見ておこうと今回は寄ってみた。市役所近くに居た警察官に城址碑の場所を聞いたが、知らないとのことで、市民の間でも認知度は低いようだ。城址碑は、唯一の遺構だった天守台を壊して昭和42年に建てられた市民会館の西側に建っており、探すまでも無かったのだが、確かに興味の無い人がわざわざ来る場所でもなかった。付近を掃除していた人の話では、幼い頃は豪雪の時に天守台から直滑降で滑ったりと、市民にも親しまれていたらしく、遺跡よりも開発という時代だったとは言え、無くなったのは非常に惜しい話である。