金ヶ崎城 所在地 福井県敦賀市
敦賀港北東1.5km
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/9/13
金ヶ崎公園の城跡部分 敦賀湾に突き出た半島の小山に位置する、三方を海に囲まれた平山城。
 平通盛が木曽義仲に備えて築いたものといわれることから、養和元年(1181)から寿永2年(1183)にかけての築城だろうか。
 その後、気比神宮の大宮司気比氏の居城となり、南北朝時代には、新田義貞が後醍醐天皇の命を受けて尊良親王と恒良親王を奉じて北陸に下った際、気比氏の当主氏治がこれを迎えて城に籠り、足利軍の高師直や斯波高経らと戦ったという記述が太平記に見える。この時、足利軍は城を包囲して兵糧攻めにし、義貞は一旦脱出して建て直しを図ったものの成功せず、延元2年(1337)に落城した。尊良親王や義貞の嫡子義顕、氏治ら300名余はこの時に自害し、恒良親王はなんとか脱出するも、後に捕えられて毒殺されたという。
 その後、新田義貞が越前を奪回した時に一旦支配するが、足利方が越前を平定すると、越前国守護となった斯波高経の下で守護代を務めた甲斐氏の拠点のひとつとなり、室町時代には斯波義敏と甲斐常治の対立で戦場になったこともある。戦国期には、甲斐氏を破って台頭した朝倉氏が南方の拠点として支配し、一族の敦賀郡司朝倉家を置いていたことから、朝倉家中でも重要視されていたようだ。ちなみに、室町幕府15代将軍になる足利義昭も、朝倉氏を頼って一時ここに滞在したことがある。
 元亀元年(1570)の信長による越前攻略では、隣接する天筒山城が激戦の末、4月25日に落城し、援軍の遅れもあって支えるのが不可能だと悟った敦賀郡司家当主景恒は、翌日に金ヶ崎城を開城して退いたが、その直後に浅井長政の寝返りが伝わり、信長は遁走ともいえる早さで近習だけを連れて京へ戻った為、朝倉氏が城を回復した。この時、退却を余儀なくされた織田軍の殿軍を秀吉が買って出て退却戦を成功に導き、後に金ヶ崎の退き口と呼ばれるのだが、秀吉は家康と共に一時この城で休息したといわれ、後年天下人となった秀吉がこの時のことを家康に謝している。
 城の構造は、現在は南が埋め立てられているが、当時は三方を岩の断崖に囲まれた海に突き出た城であり、天然の要害であった。山中の遺構はあまりはっきりはしない部分もあるが、木戸跡や堀切が明確で、標高86mの最高地は月見御殿といい、この辺りの平坦地が本丸であったとされる。また登山道周辺には所々平坦地があり、恐らく小さな郭があったのだろう。もしかすると、金ヶ崎宮も城跡を利用して建てられたものかもしれない。また、廃城年は不明だが、天正11年(1583)から敦賀城の築城が開始されていることから、この年か、織田家が越前を統一した天正元年(1573)頃に廃城になったと思われる。
 現在は遊歩道で山を一周でき、隣接する公園化した天筒山にも繋がっているらしいが、日没で十分に散策できなかった。以前に来た時も日没前後で暗かったイメージがあるのだが、この時間は散歩する地元の人が多く、付近の人にとってちょうど良い散歩コースになっているのだろう。