一乗谷城 所在地 福井県福井市
一乗谷遺跡東側後背
区分 山城
最終訪問日 2001/9/14
 朝倉氏戦国5代の居城。義景が信長によって滅ぼされるまでの約100年の間、越前支配の拠点であった。
 朝倉氏は元の姓を日下部といい、但馬国朝倉に住して地名を名字とした。開化天皇の裔とも孝徳天皇の裔ともいうが、但馬国造の系譜も汲んでいることから、古代の在地豪族の子孫かと思われる。南北朝時代の広景の時に斯波高経に仕え、戦功を挙げて越前黒丸城の目代になり、守護代の甲斐氏や織田氏と共に、在京する斯波家当主に代わって在地支配を強めた。
 孝景の時、斯波義敏と守護代甲斐常治が対立した長禄合戦に甲斐方として参戦し、常治の子敏光と共に甲斐方の主戦力として義敏方の堀江利真と戦った。この合戦の際、長禄3年(1459)か翌年の寛正元年(1460)に、堀江勢が一乗谷を攻撃して孝景の祖父教景が撃退したとあるので、この頃にはすでに一乗谷を本拠としていたらしいが、一説では南北朝時代にはすでに本拠であったともいう。一方、朝倉始末記には文明3年(1471)孝景の築城とあるが、どうやらこれは正しくないらしい。
 この長禄合戦終結前後に一方の首謀者であった常治が死去し、相対的に越前の実力者として朝倉氏の名声が揚がり、応仁の乱では、義敏と義廉の斯波家の家督争いに再び甲斐氏に付いて義廉方として西軍に属した。だが、守護代の獲得を狙う孝景は、細川勝元の誘いで東軍に転じ、甲斐氏と激戦を繰り広げて勝利し、ついに越前守護代としての地位を実力で築いた。また、この応仁の乱の頃に、荒廃した京から公家や僧侶、学者といった文人が一乗谷へ避難してきた為、城下が飛躍的に発展したという。
 孝景の後、氏景、貞景、曾祖父と同名の孝景と続き、永禄10年(1567)の義景の時には、流浪中の足利義秋も一乗谷に寄寓したが、結局は上洛に消極的だった義景を見限り、織田信長の本拠である美濃へと去った。そして、信長が義昭と改名した義秋を奉じて上洛すると、朝倉氏に対しても上洛を要請したが、義景はこれを拒否した。もとより、織田家と朝倉家には越前時代からの因縁もあり、信長の下風に立つことは義景には考えられなかったのだろう。
 これに対して信長は、元亀元年(1570)に上洛拒否を大義名分として越前への討伐を開始し、越前の入口である金ヶ崎城を攻略して軍勢の一部は木ノ芽峠を越えようとしていた。だが、この時、信長と姻戚関係にあった江北の浅井長政が寝返り、信長軍の退路を塞いだ。すると、信長は身ひとつといっていいほどの僅かな家臣を率いて朽木経由で京に戻り、追撃してくる朝倉勢に対して羽柴秀吉と徳川家康が殿軍として支えたという。これが、俗にいう金ヶ崎の退き口である。
 その後、朝倉氏は浅井氏と協力して信長包囲網の一翼を担うが、同年の姉川の合戦で浅井氏と共に織田・徳川連合軍に敗れた。この戦いは、両軍共に損害が大きかったが、その後の朝倉軍の活動が萎む気配もなかったことから、朝倉氏にとってはそれほど大した敗北ではなかったようで、比叡山に籠った志賀の陣では信長を窮地に追い込み、有利な条件で和睦している。しかし、天正元年(1573)には、小谷城救援で義景自ら出兵したものの、小谷城の出城のひとつで朝倉軍が守っていた大嶽城が陥落すると総退却を始め、織田軍の追撃によって大損害を被った。そして、義景は一族景鏡の勧めで僅かな供を連れて大野に退くが、結局その義鏡の裏切りで自刃し、朝倉氏は滅んだ。この時、一乗谷も織田軍によって焼き払われ、3日3晩に渡って燃え続けたという。朝倉氏滅亡後、朝倉家から織田家へ寝返った前波吉継が桂田長俊と名を変えて守護代となり、この一乗谷で統治を行ったが、同じ寝返り組である富田長繁と対立して天正2年(1574)に討たれ、一乗谷も田野に帰した。
 城の構造は、473mの一乗城山頂上を三ノ丸とし、尾根伝いに二ノ丸、本丸を構築してその下に千畳敷や観音屋敷などの主要建物を配置し、全ての郭には竪堀、堀切が無数に施され、堅牢な構造になっている。実際に登ってみると解るが、山上は平坦地も多く配されて、さすがに国主クラスの城だと感じられる大きさを持ちつつも、山自体は相当な峻険さで、自分が今まで登ってきた中でもトップクラスの疲労度合いだった。また、近隣の主要な峰には、小見放城や槙山城、三峰城等の出城が築かれており、一乗谷を中心とした一帯全体で防御力を高めている事が分かる。
 城を詰めとして、麓には木戸で区画された城下があり、最も栄えた頃には木戸の外にまで城下が広がっていたという。現在も下木戸、上木戸、木戸ノ内町などの地名が残り、近年発掘されて復元された朝倉館や諏訪館庭園、武家屋敷などが往時の姿を偲ばせ、木戸跡の石垣や土塁はその勢力の大きさを物語っている。