燧ヶ城 所在地 福井県南越前町
JR今庄駅南500m
区分 山城
最終訪問日 2001/9/14
燧ヶ城本丸跡 この場所は、北国街道と、木ノ芽峠へ通じる北陸道、そして山中峠への道が交わる要衝で、杣山城や金ヶ崎城と並んで北陸の重要な玄関口であった為、古くから城が造られていた。
 源平盛衰記には、寿永2年(1183)に木曽義仲が仁科守弘らに命じて「火燧が城」を築かせ、義仲に味方する6千余騎が籠ったことが見える。この軍勢に対し、平家軍は平維盛が10万の軍勢を率いて北上したが、麓の川が堰き止められて湖のようになり、押し渡って攻める事ができなかった。しかし、義仲軍の平泉寺長吏斎明威儀師が寝返って堰の存在を知らせた為、平家軍は堰を壊して城に押し寄せ、兵力の劣る義仲軍は敗れて落城したという。
 また、南北朝時代にも、一帯を領していたと思われる今庄浄慶が北朝方としてこの城に籠り、南朝方の新田義貞に味方した杣山城と金ヶ崎城の連絡を遮断する役目を果たしたことが史料に見える。このように、街道を眼下に押さえる城として争奪の的になり易く、歴史の節目節目に登場する城であった。
 だが、戦国時代前期の事跡としては、斯波家の支配下にあった時には赤座但馬守、朝倉家の支配下にあった時には魚住景固が城主であったということが知られている程度である。魚住景固は朝倉義景の奉行人として知られているが、赤座但馬守が誰に相当するかはよく判らなかった。その名前で史料に登場するのは赤座直保の先祖景秋で、応仁の乱の頃の人物だが、赤座家が代々但馬守を名乗っているかもしれず、比定は難しい。
本丸より今庄市街 戦国時代末期になり、天正元年(1573)に信長によって朝倉氏が滅んだ後、越前は織田家に寝返った朝倉遺臣によって統治される。だが、翌年には越前全体に一向一揆が広がり、これを指揮する為に加賀から本願寺の坊官下間頼照が派遣され、頼照は天正3年(1575)に再侵攻してきた信長軍に対して木ノ芽峠周辺で防御線を成して抗戦した。その時に籠った城がこの城とも観音寺砦ともいわれるのだが、一揆軍にも内部対立があって足並みが揃わず、10万という兵力を動員した信長軍に敗れ、頼照も高田専修寺派称明寺の門徒に討たれたという。
 その後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で敗れた柴田勝家が立ち寄ったとされることから、木ノ芽峠や栃ノ木峠に対する抑えとして城は維持され、石垣などの設備も整えられていったようだ。また、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦時には、今庄の領主として前述の赤座直保が挙げられていることから、直保が居城としていた可能性もある。もし、赤座但馬守が直保の祖である景秋で、直保も城主として在城していたのなら、100年の時を越えて城に復帰したことになるのだが、真相はどうだろうか。
 関ヶ原の合戦後、直保は本戦での寝返りを事前に明らかにしなかった為、功を認められず、改易となった。直保に代わり、今庄は越前一国を拝領した結城秀康が治めたが、国内の要地に重臣を配した際、今庄には重臣が派遣されなかったらしく、城はこの時か、直保が入城していないならばそれまでに廃城になっていたのだろう。
 現在の城跡には、藤倉山や鍋倉山へのハイキングコースが通っている為か、山へと入る道は綺麗に整備され、城跡も散策しやすい。城跡からは今庄市街を一望できるほか、各所に虎口や堀切、石垣などの防御施設が残っており、城跡としてもハイキングコースとしてもなかなか心地良く歩ける。城には大きく3つの郭があり、土橋などはかなり良好に残っているが、規模自体は小さく、川筋に張り出した山の突端部という地形を利用するに留まっており、中世の山城の域を脱してはいない。

燧ヶ城縄張図