玄蕃尾城 所在地 福井県敦賀市
北陸道刀根P.A.東2.2km
区分 山城
最終訪問日 2010/10/11
玄蕃尾城案内板 柴田勝家が、賤ヶ岳の合戦の際に本陣を置いた城。
 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が斃れた後、清州会議で秀吉と勝家が争い、逸早く根回しをして三法師擁立に成功した秀吉が実質的な後継者となるのだが、秀吉は勝家に対する懐柔策として、三法師の居城安土城に近い長浜城を勝家に割譲した。これにより、勝家にとって越前と近江を結ぶ街道の重要性が増し、難所の木ノ芽峠を避けつつより直線的に南下できる栃ノ木峠越えの改修に着手することとなる。
 江戸時代の北国街道はこの栃ノ木峠越えの道になるのだが、玄蕃尾城は街道を見下ろす位置にあり、非常に重要な役割を持っていた。一般に玄蕃尾城の築城は、天正10年(1582)から翌年の賤ヶ岳の合戦までの間とされるが、城の重要性を考えると、北国街道の改修拡張に合わせて築いたと考えるのが合理的だろうか。賤ヶ岳の合戦の際に勝家配下の諸将が築いた陣城に比べ、構造の複雑さや充実度合いで玄蕃尾城が抜きん出ているというのも、総大将の本陣という理由だけではないようだ。ただ、築城については異説もあり、天正元年(1573)に浅井氏救援に赴いた朝倉氏によって築城されたとの説もある。
 清州会議後、信長の後継者の座を賭けた両者の争いは激しさを増し、まずは互いに外交や調略で味方となる勢力を増やそうとした。そして、ひと通りそれが終わると同年12月には秀吉が長浜城を攻撃し、ついに両者の直接対決が始まる。だが、勝家は雪に阻まれて援軍を出せず、長浜城主で勝家の養子でもある柴田勝豊はすぐに降伏し、親勝家勢力であった美濃の織田信孝も降伏、伊勢の滝川一益も次第に追い詰められていった。
 この状況に痺れを切らした勝家は、翌同11年(1583)2月末にようやく軍を南下させるのだが、改修した栃ノ木峠の街道が雪深かった為、旧来の木ノ芽峠越えを除雪しながら進み、敦賀を経由して柳ヶ瀬に至ったという。こうして、勝家軍3万は3月初旬に玄蕃尾城から柳ヶ瀬付近に陣を布き、呼応するように秀吉軍5万も木ノ本に布陣したが、両者とも歴戦の武将であり、戦の流れを知ってか開戦することなく睨み合ったままであった。
 だが、4月中旬になると、一旦は降伏した信孝が再び兵を挙げ、秀吉が信孝を討つ為に美濃へと兵を動かし、情勢に変化が起こる。この均衡の崩れを機と見たのは勝家の甥佐久間盛政で、勝家の許可を得て大岩山砦の中川清秀を急襲し、清秀を討取ったほか、更に岩崎山砦の高山右近重友を攻撃して後退させたのだった。
土塁で囲まれた本丸 しかし、勝家の撤退命令を拒否した盛政が敵中に突出した状態のまま、秀吉が美濃から僅か5時間で戻ると状況は一変し、盛政は慌てて退却を始めるものの追撃を受けてしまう。盛政の部隊はそれでもよく善戦したが、やがて勝家軍の一角を担う前田利家が単独撤退を開始し、更には最近まで勝家の与力に過ぎず戦意の高くなかった織田旧臣の部隊に波及すると、勝家軍は総崩れとなり、合戦は終結した。
 城は賤ヶ岳の合戦での本陣であったが、毛受兄弟を除いて柴田本隊は大した抵抗もせずに退却したので、城で戦闘はほとんど無かったと思われる。合戦の終結後、一気に勝家を滅ぼした秀吉は北陸まで領地を広げた為、存在意義の無くなった玄蕃尾城はそのまま放置され、朽ちていったようだ。だが、この放置が逆に遺構保存には良かったようで、明確に地形が残る結果となった。
 敦賀側からは、かつては北陸本線の鉄道トンネルだったという柳ヶ瀬トンネルの直前の三差路で折れ、登り詰めた車道終点から15分ほど登ると城へと到着する。ちなみに、車道終点からすぐ上の切り通しのような場所は久々坂峠、別名刀根越と呼ばれた場所で、朝倉軍が越前へ撤退する際に織田軍によって大敗北を喫した刀根坂の戦いの一連の戦場のひとつであった。この事だけでも、玄蕃尾城の地理的重要性が解る。
 城へと向かう遊歩道は尾根筋を通っているが、この尾根筋は幅が10mから20mもあって、やたらと広い。しかも削平地とまではいかないが、平らな地形に近く、林道へ戻る際に城へ向かう人から、まだ城内じゃないんですかと聞かれたほどだ。しかし、防御設備が何も無く、城から近い割に無造作に放置された感がある。恐らく、玄蕃尾城の規模がそれほど巨大でない事から考えるに、長い対陣となった賤ヶ岳の合戦の際に、城へ収容し切れない下層武士の駐屯地となっていたのではないだろうか。それなら尾根筋に対する防御が甘い事や、やや人工的な匂いのする平坦な地形というのにも納得がいく。
 城の構造は、方形の本丸を中心に、大手となる南に細長い武者溜りのような虎口郭を2つ設け、北の搦手にも四分円に近い形の虎口郭を置いており、これら大きく3つの部分で南北に長く構成されている。本丸の虎口には馬出を設け、尾根筋には張出郭や腰郭を造り、本丸北東隅には櫓台を置くなど、戦国末期の成熟した築城術が窺えるのも、この城の大きな特徴だろう。実際に城を散策した感じでは、城郭自体はそれほど大きくないのだが、遺構の残り具合が素晴らしく、土塁、空堀といった土の構造物が当時のままかと思われるほどはっきりと存在し、これだけ明確に見て解る山城はそうは無い。
非常にはっきりと各所に残っている空堀 事前に調べた所では、城近くまで入れる道は未舗装の林道ということだったが、その林道が幸いにも舗装整備されたようで、バイクで登り切ることができた。途中から徒歩かと覚悟していただけに、バイク乗りとしては非常に有難い。また、山を降りる際に遊歩道を補修して下さっている方がいたが、こういう方達が手を入れてくれているおかげで快適に登城できるので、感謝の気持ちでいっぱいになった。ちなみに、秋にはこの玄蕃尾城から疋壇城を経由して敦賀まで狼煙のリレーをやっているらしいのだが、実際にどのように見えるのかは気になるところだ。