福井城 所在地 福井県福井市
福井県庁周辺
区分 平城
最終訪問日 2018/5/27
福井城縄張図 福井城の前身である北ノ庄城は、朝倉教景の弟頼景が築城した城で、本拠一乗谷城の北の支城だった。当時は居館的な城で、それほど大きな城ではなかったと思われる。
 天正3年(1575)に一向一揆を討伐して越前へ入部した柴田勝家は、城下町の発展を考えて一乗谷城ではなく平野部の北ノ庄城を改修拡張したが、朝倉時代の北ノ庄城を拡張したのか、それとも築き直したものなのかは、はっきりしない。いずれにせよ、織田家の筆頭家老の地位に相応しく、七層とも九層ともいわれる天守を備えた壮大な城であった。
 福井城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で上杉氏への抑えとして関東に残っていた結城秀康が戦後に越前を与えられ、翌年からその居城として大々的に築城されたもので、もとあった勝家築城の北ノ庄城を元に拡張したとも、新たに築き直されたともいわれているが、北ノ庄城の詳細な縄張が判っていない為、結論は未だ出ていない。ただし、名称自体は北ノ庄の名前を引き継いでおり、この時点では未だ福井という名称は使われていなかった。
 秀康は家康の次男だが、家康から嫌われていたとされ、秀康の名は秀吉の養子となって秀の一字を貰ったことによる。その後、結城家へ養子に入り、最終的には松平姓に復すものの福井に入部した時は結城姓であった。秀康の兄信康は、武田家に内通したという疑惑で信長に切腹させられており、次子である秀康は、武将としての器量から考えても普通なら家督相続候補の筆頭であるはずだが、将軍職は三男の秀忠が継いだ。
天守台と奥の控天守石垣 このことがあったからか、それとも大坂の陣の功が評価されなかったからか、はたまた将軍職を継ぐ従兄弟家光のブレーンの陰謀によるものか、秀康の嫡男忠直は幕府に反抗的であったとされ、結局元和9年(1623)に隠退させられた上、豊後に移されてしまう。こうして福井には、別家を立てていた秀康の次男忠昌が入り、忠昌は北ノ庄の北の字は敗北に通じるとして福居と名を変え、やがて現在の福井の字があてられるようになった。
 その後の越前藩は、一時半知となるなどの危機を乗り越え、忠昌直系の子孫は途絶えたものの、家としては福井を領したまま維新まで続き、幕末には四賢侯に数えられた春嶽こと慶永を輩出している。また、秀康の系統全体としての越前松平家は、親藩の中でも多くの分家が出た家で、しかも大藩が多く繁栄した家系であった。秀康の不遇は、子孫が繁栄することによってようやく報われたのかもしれない。
 城は、諸大名が分担した天下普請でありながら、完成までに6年を要したほどの大きさで、家康自ら中心部分を縄張したともいう。縄張としては、南西の足羽川と大きく拡張した南東の吉野川を南方向の区切りとして、そのV字状の川筋の間やや東寄りに方形の本丸を置き、そこから東西北を囲むように郭を重ねた輪郭式の城である。そして、この2km四方に及ぶ巨大な城に相応しいように、築城当初は四層五階の天守も建てられていたのだが、残念ながら寛文9年(1669)に焼失してしまい、以降、天守が再建される事は無かった。ただ、その代わりとして三層の巽櫓を天守の代用としている。
本丸に通じる山里口御門と御廊下橋 維新後、城は早くも明治3年から外堀の埋め立てが始まり、その後は陸軍省に移管されて保たれたものの、同10年には叛乱士族の拠点化を恐れた政府が、払い下げで慌しく破却した。現在は、幾重もの外堀は完全に埋め立てられ、内堀とその内側の本丸及び天守台の石垣のみが残っている。とは言え、その本丸跡も県庁や県警の敷地であり、城跡らしい雰囲気は少なく、地名の元になった福の井という井戸を持つ天守台付近が城としての雰囲気を一番感じられる所だろうか。また、近年には山里口御門と御廊下橋が復元されている。