湯築城 所在地 愛媛県松山市
伊予鉄道道後公園駅東すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2004/9/11
湯築城跡である道後公園の案内図 伊予の名族、河野氏の累代の居城。
 河野氏は、古代氏族越智氏の流れといわれる。越智氏は、孝霊天皇の末裔という説や饒速日命を祖とする物部氏の分かれという説があるが、孝霊天皇は第7代という天皇家草創の頃の人物で、饒速日命も日本書紀や古事記に載っている人物であり、もはや出自は伝説に近い。どうやら、瀬戸内や伊予に勢力を持っていた国造家の流れが越智氏であるようで、河野氏も玉澄の時に伊予国風早郡河野郷に住んで河野を称したのが始まりという。
 河野氏が歴史上に登場するのは、天慶4年(941)に制圧された藤原純友の乱の時で、河野好方という人物が見える。純友を捕えたのは越智氏の流れとされる伊予橘氏の橘遠保であることから、河野氏はこの頃には開拓領主として武士化し、越智氏庶流として伊予水軍に参加したのだろう。
 その後、源平合戦の頃に通清・通信父子が源氏に味方して功を挙げ、伊予に大きな勢力を得たが、承久3年(1221)の承久の乱の際に一族のほとんどが朝廷側に付いて没落し、北条氏から室を迎えていた通久だけが幕府方として存続した。ちなみに、通信の子通広の、さらにその子が時宗を開いた一遍で、承久の乱の後の生まれである。出生地は異説があるものの、湯築城近くの宝厳寺とされているので、もしこの説が正しければ、この辺りは湯築城築城以前から河野氏にとって重要な土地であったと考えることができる。
 通久の後、孫の通有は元寇での功で旧領を回復し、南北朝時代には通朝・通盛父子が北朝方として南朝方に付いた庶流らと戦って勢力を拡げ、伊予守護となった。この南北朝期の初頭に湯築城が築かれたが、早くも康永元年(1342)には忽那氏の攻撃で湯築城が落城し、通盛が奪回したという。後には、四国を絶対的な基盤としたい細川氏と守護職を巡って度々争い、通盛が討死し、その子通堯も貞治3年(1364)に湯築城を奪われ、やがて九州へ落ちることを余儀なくされた。数年後に通堯は伊予へ復帰するが、細川氏と和睦した後もこの因縁が尾を引き、応仁の乱の際には、宗家の教通が細川氏を嫌って山名宗全の味方となり、惣領を狙う予州家の通春は細川勝元に付いて相争っている。
土塁と堀がはっきり残っている内堀 応仁の乱後も、このような内訌や家臣の叛乱などがあって河野家は勢力を強く拡大できず、守護大名から強力な支配力を持つ戦国大名への脱皮は叶わなかった。この内訌の代表的なものが来島騒動で、天文年間(1532-55)頃の当主弾正少弼通直には実子が無く、娘婿の来島村上氏の通康を養嗣子として迎えようとしたが、予州家の通存や家臣がこれに反対し、通直は湯築城を攻撃されて退去した。最終的には通存の子通政が家督を継いだが、通政は通直の実子という説もあり、もしそうならば、実子がいるのにわざわざ養子を迎えなければならなかったということで、宗家と庶家の対立だけではなく、河野家内はかなり複雑な状況に陥っていたということになる。
 戦国後期の伊予は、毛利氏や大友氏、一条氏とそれを滅ぼした長宗我部氏が侵入や介入を図るが、河野家は中国地方に覇権を打ち立てた毛利氏と通じ、大野直之の叛乱や宇都宮氏討伐などに対処していた。また、河野家の当主は、前述の通政が早世し、その後は弟通宣、一族通吉の子道直と続いて、強力なリーダーシップを持った人物が長期間家政を見るということがなく、どうしても場当たり的な政策を採る原因にもなった。
 やがて、天正9年(1581)には東予の金子元宅が長宗我部元親に従い、元親による伊予制圧が開始され、道直も毛利氏と結んで抗していたが、同13年(1585)についに元親に降伏した。その直後、今度は秀吉の四国征伐が始まり、河野氏は湯築城を囲まれて籠城したが、小早川隆景に説得されて開城し、戦後は隆景の本拠がある備後竹原に去った。
 四国征伐後、伊予は隆景が領して湯築城の城主となったが、同15年(1587)の九州征伐後に筑前へ移され、代わった福島正則は今治の国分山城を本拠とした為、湯築城は廃城となった。
 その後、松山城築城の際に資材が持ち出され、江戸時代は荒廃していたというが、下手に人手が入らなかったことが幸いし、二重の堀と土塁が見事に残っている。維新後は植物園や遊園地、動物園として整備されていたが、動物園が閉園した後、城跡の発掘調査が始まり、武家屋敷や大量の遺物が発掘された。現在は、これを利用する形で史跡公園として再整備されており、湯築城資料館が建ち、武家屋敷も復元されている。
本丸跡の頂上展望台から復元されている武家屋敷と堀 この武家屋敷一帯は戦国時代に拡張された部分で、それ以前は中心の山だけが城郭化されていた。つまり、山城から平山城への変遷があったわけで、城の役割が軍事機能だけに留まらなくなったことを示している。山の部分は城の中核で、本壇と呼ばれる頂上の本丸は広くなく、それに続く中段の部分が広い。この中段の部分には河野氏の居館があったというが、発掘調査では居館らしい建物の痕跡は見つからなかった。全体的にはそれほど規模の大きくない城だが、土塁と二重の堀は東国の近世の城に劣らず、非常に見ごたえがあった。