海山城 所在地 愛媛県今治市
JR波止浜駅北西1.3km
区分 山城
最終訪問日 2008/10/23
海山城展望台にある説明板 来島海峡の西南、しまなみ海道を一望できる位置に海山城はある。
 古くは奈良時代に狼煙台が置かれ、西の半島の突端にある宮崎から、この海山を経由して唐子山付近の伊予国府まで狼煙が伝えられたという。その頃は海山ではなく遠見山と書いてオミヤマと呼ばれていたが、国府から見て近いほうが近見山、遠いほうが遠見山と名付けられたのだろうか。
 中世に入ると、城の西にある養老地区に居館を持つ勢力ができ、海山城は詰城として使われたというが、その勢力が具体的にどのようなものであったかは案内板に記載が無かった。養老地区には養老館と呼ばれる居館跡があるが、隣接の岡地区や樋口地区、波方地区にも城跡が多くあるようなので、どのような範囲の勢力を持っていたかもよく分からない。いずれにせよ、南北朝時代頃から芸予間の海域で村上水軍が台頭すると、これに吸収されていったようだ。
 村上水軍は3つの家に分かれており、最も伊予に近い来島を本拠としていた家は来島村上家と呼ばれ、伊予守護の河野家と繋がりが深かった。戦国時代には、海山城は来島村上家の城砦群のひとつとなり、番所が置かれていたが、正確には城というより砦程度の規模だったらしい。
 天正10年(1582)、以前から独立の気配を見せていた来島村上家当主の通総が、河野家から織田氏へ寝返った為に毛利氏と河野氏の攻撃を受けて翌年に逐電し、海山城を含むこの辺りの城砦も攻略されたり放棄されたと思われる。この時、通総の兄得居通年が鹿島で踏ん張っていたが、四国側の領地までは維持できなかっただろう。その後、本能寺の変を境に毛利家と秀吉が和睦し、天正13年(1585)の四国征伐で河野氏が滅んだことによって来島村上氏が再びこの一帯を領したが、以前の城砦網をそのまま維持したかは不明である。維持していれば海山城は機能していたと思われるが、実際どうだったかは想像するしかない。少なくとも、豊臣政権下では従来の村上水軍のような活動が制限されており、存続していても城の必要性は薄れていただろう。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、通総の子長親が西軍に属して一旦改易となった為、もやは水軍の支配ですらなくなり、確実にこの時には城は機能を失っている。
城の形をした海山城展望台 現在は、立派な白亜の展望台が建っており、しまなみ海道の眺望が素晴らしい。海山城の機能が、砦や見張番所が主なものだったということもあって、それほどの防御設備は構えられていなかったと思われる。また、江戸時代以降は荒れるに任せていたらしく、そのまま自然に返って遺構もほとんど失われてしまったようだ。恐らく、展望台や1段下の公園が造成される際にも遺構の破壊があったと思われるが、今となっては確認のしようもない。説明板では、犬走りの一部が散見されるとあったが、散策した限りでは、それらしい遺構も見つからなかった。