松山城 所在地 愛媛県松山市
JR松山駅東1.3km愛媛県庁後背
区分 平山城
最終訪問日 2004/9/11
松山城縄張図 現在の松山市街地は、中世は伊予守護の河野氏の本拠地で、道後温泉近くの湯築城がその居城であった。その城跡は道後公園となっているが、松山城からもはっきり確認できるほど近い。その頃、松山城のある山は勝山や味酒山と呼ばれていたが、この近さから南北朝時代には湯築城攻撃の陣が張られたこともある。
 天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で河野氏が没落した後、伊予は小早川隆景に与えられたが、2年後の九州征伐の後に隆景が筑前へ移されると、南の松前城に栗野秀用が、そしてその改易後には加藤嘉明が入部した。
 嘉明は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に属して功を挙げ、松前城を守った佃十成などの家臣もまた、西軍に呼応して攻め寄せた村上水軍や河野旧臣らの軍勢を撃退し、これらの功により嘉明は加増されることとなる。そして、加増により封土に対して松前城が手狭になったことから、嘉明は新城の築城を同7年(1602)に開始し、翌年に一応の完成を見て入城した。これが松山城で、城のある勝山に赤松が多かったことから完成時に松山と名付けられ、それが城名にもなっている。その後、嘉明は寛永4年(1627)に会津へ転封となっているが、この頃まで松山城とその城下では工事が続けられていたらしく、嘉明自身は転封が相当残念だったらしい。
 嘉明に代わって松山城に入部したのは、前会津藩主蒲生忠郷の弟忠知である。忠郷が嗣子無く没して蒲生家が断絶となるところを、母が家康の娘振姫ということで本家相続を許されたのだが、東北に睨みを利かす上で重要な会津からは移され、嘉明と入れ替わって松山へと入封した。忠知は、松山城とその城下を完成させるなど、治績は安定していたのだが、会津時代から続く家臣同士の対立に心を砕き、その心労がたたったのか、寛永11年(1634)に嗣子無く没してしまい、結局蒲生家は断絶してしまう。
本丸からの天守 代わって翌年に松山城へと入部したのは久松松平定行で、入部後しばらくすると城の改修を始め、寛永19年(1642)には五層六階の天守を三層四階に改めた。だが、この天守は天明4年(1784)に落雷で焼失してしまい、藩では再建を計画したものの、江戸時代中期以降の諸藩がそうであったように松山藩も相次ぐ飢饉などで財政難に見舞われており、ようやく12代勝善の時の安政元年(1854)に天守の再興を果たしている。また、この2代後の定昭の時に維新を迎えるが、定昭は老中就任の直後に大政奉還となってしまった為、朝敵とみなされ、恭順の姿勢を示したものの、維新後しばらくの間、城は土佐藩兵の管理下に置かれた。
 城は、維新後の破却は免れたが、相次いで二ノ丸と三ノ丸が焼失し、昭和に入ると放火と戦災で小天守や隅櫓、門なども焼失してしまう。だか、昭和中期から市の努力でほとんどが木造復元され、現在は現存する天守を中心に城らしい趣をよく残している。
 松山城は、山頂に細長い本丸を持っており、登ってみると解るが、132mという標高の割にかなり広い。これは、勝山にはもともと2つの峰があり、その峰を削って間の谷を埋め、台地にした為である。この本丸の北西部には大天守と小天守が置かれ、隅櫓を多聞櫓で連結して削平地と区画し、その背後は断崖をもって天然の城壁としていた。本丸の南端から東には長者ヶ平、西にはやや下って中腹に二ノ丸、そして南西麓に三ノ丸を擁し、三ノ丸の周囲には堀も残っている。また、北の搦手にも北郭というのがあった。
天守から本丸と松山市街を望む 訪れた時は、観光客がロープウェイで大量に登って行く中、登山道を歩いてみたが、標高相応の長さはあったものの、道自体はそれほど峻険な道ではない。そのまま大手門から太鼓門へ向かって歩いていくと、本丸の入口を防衛する複雑な道となっており、ここはなかなか見応えがあった。そこから本丸へと入ると、一転して広い空間が視界に広がるので、松山市街の眺望と合わせてなかなか良い雰囲気だ。ただ、二ノ丸が工事中で入れなかったので、次回に訪れる時は二ノ丸を見学して違う登山道から登ってみようと思う。