松前城 所在地 愛媛県松山市
伊予鉄道松前駅北900m県道22号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2004/9/11
松前城址碑 松前城の築城年代は不明だが、平安時代には定善寺があり、境内に設けられた砦がその最初という。松前はマツマエではなくマサキと読み、正木城や柾木城とも書く。
 史料に最初に現れるのは、建武3年(1336)の大祝安親の軍忠状で、南朝方にあった合田貞遠の籠る城を安親が攻略したとある。城はその後、湊川の合戦で楠木正成の腹を切らせた者と呼ばれるほどの大功を挙げた大森彦七が城主となり、後に河野十八将の筆頭に数えられた平岡氏の先祖も在城した。応安元年(1368)には、九州へ転戦していた河野通堯(通直)が豊前から上陸して北朝方の宍草出羽守が守っていた松前城を攻略したが、以降も城主の変遷が幾度かあったようだ。戦国時代に入ると、河野氏の本拠である湯築城の西の防衛拠点として河野家臣栗上氏が守り、通宗や通閑という名が史料には見え、大友氏や毛利氏の侵入に対して機能したという。
 天正13年(1585)、土佐統一後に阿波や讃岐を席巻した長宗我部元親は、苦戦していた伊予攻略を再開し、遂には河野氏を臣従させて四国統一を成し遂げ、この松前城も長宗我部氏の影響下に入った。しかし、同年には早くも秀吉による四国征伐が開始され、元親は降伏して土佐一国の国主に戻り、結局、伊予は小早川隆景に与えられている。この時、河野氏や栗上氏も降伏し、小早川隆景の本拠地である安芸に移ったという。
 天正15年(1587)の九州征伐後、隆景は筑前に移され、翌年には松前に栗野秀用が封じられたが、この秀用は元伊達家臣で、奥州から上洛して秀吉やその甥で関白となった秀次に仕えた武将である。文禄4年(1595)に秀次が失脚した際、秀用も連座して改易となっているが、伊達政宗は秀用からのラインで秀次と接触していたようで、この時に政宗も嫌疑を受けたらしい。この出来事からは、豊臣政権下での複雑な大名間の関係を垣間見ることができる。
 秀用の後、同年に加藤嘉明が淡路国志知から松前へ入部した。嘉明は、家臣の足立重信に命じて松前湊の大改修を行っていることから、城もある程度改修されたと見られるが、どの程度の規模の城であったかは判っていない。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、嘉明は東軍に属して出陣したが、その留守を衝いて村上武吉らの毛利軍と河野旧臣が、河野家再興を旗印に瀬戸内海を渡海して三津に上陸したほか、それに呼応して伊予国内の河野旧臣も松前城下に乱入している。しかし、いずれも佃十成の奇襲作戦などによってことごとく敗退し、河野家再興の夢は潰えた。
 戦後、嘉明は加増を受け、20万石の封土となり、それに相応しい規模と広大な後背地を求め、松山城の築城に着手する。それに伴い、松前城からは資材が持ち出され、慶長8年(1603)に廃城となった。
 廃城後は、城地に番所などの施設が置かれることも無く放棄されたようで、現在の城跡に遺構は何も無く、少しだけ土が盛られた場所に城跡と由緒を示す碑があるだけである。ちなみに、この土盛りは、江戸時代の二ノ丸跡耕地化の際に盛られた残土といわれ、それが正しいとすれば、碑のある場所は二ノ丸かその近辺ということになるが、実際はどうなのだろうか。江戸時代の初期まで存続していた上、支城ではなく本城として使われていたことから、それなりの規模と設備を持った城であったはずだが、現地からは全く想像ができず、ただただ、臨海の工場地帯らしい化学臭が漂うばかりだった。