黒瀬城 所在地 愛媛県西予市
西予市役所南西400m宇和運動公園後背
区分
最終訪問日 2004/9/11
 戦国時代末期に南伊予を領していた西園寺氏の居城。
 西園寺氏は藤原氏であるが、一族諸流の多さから他の藤原氏が居館の位置や役職によって一条氏や九条氏と呼ばれたように、現在の金閣寺の位置に西園寺という寺を造営したことから西園寺氏と呼ばれるようになった。この西園寺を造営し、西園寺殿と呼ばれるようになったのは藤原公経の時で、公経は頼朝と姻族であった為に承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇に幽閉されたものの、乱後は鎌倉幕府の影響力を背景に朝廷で重きをなした。
 一方、この伊予国宇和地方は、橘遠保が藤原純友の乱で活躍したこともあって代々橘氏の所領であったのだが、その公経が宇和地方を所望したことから西園寺氏が領することとなり、やがて南北朝時代頃に庶流の公良が下向して伊予西園寺氏の祖となった。この公良は、肱川を挟んだ北の山向かいにある松葉城に入り、以後代々の西園寺氏の居城となっていたが、戦国末期に至って情勢の悪化からより防衛しやすい城が構築された。それが黒瀬城である。
 黒瀬城の築城は天文年間(1532-55)後期か弘治年間(1555-58)頃とされ、一般的に築城者は実充とされるが、一説には実充が計画し、実際に築いたのはその養子公広ともいう。この頃の西園寺家は近隣との争いが絶えず、弘治2年(1556)には実充の嫡子公高が宇都宮豊綱の攻撃によって敗死し、実充が逆襲して大洲の地蔵ヶ嶽城下に迫るなど、宇都宮家と激しく争っていた。また、南からは宇都宮氏と結んでいた一条兼定の攻撃も受け、永禄9年(1566)には黒瀬城も大友軍の攻撃にさらされている。
 このように、黒瀬城築城後は西園寺家にとって困難な情勢が続いたが、永禄11年(1568)に河野氏が中国の覇者毛利氏と結んで豊綱を攻撃すると、公広はこれに参陣して宇都宮・一条連合軍を破り、宇都宮氏を滅亡に追い込むことができた。だが、続いて遺恨の残る一条氏を攻撃したことによって、一条氏と婚姻していた豊後の大友宗麟の軍事介入を受け、元亀3年(1572)には黒瀬城も攻撃されて降伏に近い形で和を乞う羽目になった。また、その後、一条氏が長宗我部元親によって滅ぼされると、今度は元親の猛烈な攻勢を受け続け、ついに天正12年(1584)に開城降伏した。だが、伊予の西園寺氏と河野氏を次々に降して伊予を制圧した元親も、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で敗れ、元親に臣従していた公広もまた、上方軍に降伏した。
 伊予は隣国に大友氏や毛利氏、長宗我部氏といった強国が存在し、その影響力が及びやすい為か、伊予のどの大名家も、中世的な半独立状態の国人や地侍を強力な主従関係のある家臣団に編制できなかった。西園寺家も例に漏れず、個別に見れば長宗我部家の伊予軍代久武親信を敗死させた土居清良や、大友家の水軍を撃退した法華津前延などの勇将もいたが、独立心旺盛な家臣の内訌や叛乱に勢力を削がれ、強国に対抗できる力は最後まで持つことができなかった。
 秀吉に降伏した後の公高は、伊予一国を与えられた小早川隆景のもとで黒瀬城に在城することを認められた。だが、2年後の九州征伐後に隆景が筑前へ移封し、新たに戸田勝隆が大洲に入城すると、公広は下城を命じられて黒瀬城もついに廃城となり、挙句の果てに公広は旧来勢力の影響力排除の為、切腹さらせれた。
 事前に城について調べずに訪れた為、JR卯之町駅でいろいろと情報収集したが、観光パンフレットなどには城が記載されていなかった。明らかに雨をもたらす黒い雲が南から迫っており、しかも国道56号線が渋滞していたいた為、怪しそうな所をうろうろすることもできずに立ち去ったが、後で調べてみたところ、宇和運動公園の後背にあるらしい。