国分山城 所在地 愛媛県今治市
桜井中学校北1km県道38号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2008/10/23
唐子山山頂の城跡にある案内板 唐子浜の正面にある急峻な唐子山にある城で、国分城や府中城とも呼ばれる。
 国分山城が築城された時期は明確でなく、南北朝時代の頃であるという。ただ、伊予国府から近いという地勢的な条件や手ごろな標高というのを考えると、それ以前から国府を守護する砦や有事の際の詰城といった機能が置かれていても不思議ではなく、城の歴史がもう少し遡る可能性があるのかもしれない。
 南北朝時代初期の頃の国分山城周辺では、興国3年(1342)に南朝方の武将で新田義貞の弟でもある脇屋義助が伊予国府に進出し、急に発病して病死するということがあった。その義助の墓が城からほど近い国分寺辺りにあることや、新田一族で南朝方伊予守護だった大館氏明がすぐ南の世田城を拠点としていたことから、この国分山周辺一帯は南朝方の拠点となっていたようだ。しかし、義助の病死直後に北朝方の細川頼春が侵入して氏明を自刃に追い込み、以降の東予は河野氏と細川氏で争奪が繰り返されるようになる。ただ、国府山城の名は史料に見えず、この頃の城主などはよく分からない。争奪が続いた時代も世田城や峰続きの笠松城が機能していたようなので、国分山城はその出城的な用途があったのではないだろうか。
 その後、南北朝末期に河野氏と細川氏が和睦すると、以降は河野氏がこの周辺の支配権を握ったようだ。具体的には、河野家庶流の重見氏や正岡氏が領したらしい。
 戦国時代に入り、河野通直の代に河野家中が乱れると、本拠を来島に置く来島村上家が叛いた重見氏や正岡氏の討伐で功を挙げ、通直の信頼を得て国分山城周辺に勢力を築いたという。特に通直の娘婿である村上通康への信頼は絶大で、その力に期待した通直が家督を譲ろうとするほどであったが、結果的にはこれが家中を割ることとなって逆に勢力の弱体化を招き、河野家は戦国大名に脱皮するきっかけを失うこととなる。
 通康の子通総の代になると、織田家が中国地方に進出するようになり、その部将だった秀吉の調略を受け、通総は天正10年(1582)に織田家へ寝返った。すると、当然のことながら、河野家や河野家と同盟関係にある毛利家、両家と繋がりが深い能島村上家から攻撃を受けて苦境に陥り、通総は支えきれずに秀吉の許へ逐電してしまう。通総の兄得居通幸は、鹿島でなんとか善戦していたものの、来島村上家の旧領の多くは能島村上家によって奪われ、同様にこの城も能島村上家の属城となったのである。
 能島村上家当主の村上武吉は、この城を重要視して改修し、拠点化した。しかし、毛利家が本能寺の変で秀吉と和睦した後、武吉が秀吉の意向に従わなかったことから、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐の際に能島城で小早川隆景の攻撃を受け、降伏に追い込まれてしまう。そして、それに伴ってこの国分山城も開城した。
 四国征伐後、伊予は隆景の領地となり、同15年(1587)の九州征伐後に隆景が筑前へ移されると、秀吉子飼の福島正則が東予を与えられて入部する。正則は、隆景が本城としていた湯築城を廃してこの城に本拠を移し、11万石の封土に相応しいよう改修拡張した。文禄4年(1595)に正則が尾張国清洲へ転封となると、代わって池田景雄が入部したが、慶長2年(1597)に慶長の役で景雄が死去すると、翌年には小川祐忠に与えられている。だが、同5年(1600)の関ヶ原の合戦で、祐忠は小早川秀秋に呼応して西軍から寝返ったものの、当初から旗幟を鮮明にしなかったことから改易となってしまう。そして、伊予半国は早くから家康に尽くした藤堂高虎に与えられ、高虎が同7年(1602)から本拠とする今治城の築城を始めると、国府山城の資材が転用され、城は廃城となった。
 唐子山の山容はなかなか峻険で、登山道が整備されているとは言え、登るのに体力が要る。登山道が山肌を縫うようにうねらず、山頂へ向け直線的に延びて傾斜が急になっていることも原因のひとつだろう。この遊歩道の麓付近に、道沿いに3ヶ所ほど明らかに人工的な平坦地があるのだが、往時は何らかの城郭施設があったのだろうか。その場所を過ぎれば山頂までひたすら坂道で、遺構らしい遺構は見られなかった。北東麓に城主の居館があったらしいので、登ってきた道が大手になると思われるが、防御面を考えると直線というのは考えにくく、往時はもっと道がくねらせてあったのかもしれない。山頂の本丸跡はそこそこの広さがあるとは言え、近世まで大名の本拠城として機能していたにしては手狭すぎるように感じ、藤堂高虎が今治城を築いて移ったのも頷ける。ちなみに、唐子山の名は、移城後に高虎が松を植え、山の姿が唐子のようになったかららしい。
国分山城本丸跡 現在は遊歩道が整えられ、頂上の本丸部分は公園化されているが、地元住民の憩いの山という感じで、史蹟を重んじた整備のされ方ではなかった。遺構が少ないのは、公園として整備する時に破壊されたのか、それとも高虎が資材の持ち出しを徹底したのか、どちらなのかは今となっては判らないが、もう少し遺構があれば良い城跡だったのにとは思う。訪れた時は曇天だったが、木々の間から唐子浜や瀬戸内海が見渡せたので、晴れならばかなり良い眺望と思われ、水軍の将が重要視したというのが実感できる景色だった。