金子城 所在地 愛媛県新居浜市
JR新居浜駅西1.6km滝の宮公園内
区分 山城
最終訪問日 2008/10/23
金子城址碑 金子氏代々の居城で、金子山城ともいう。
 金子氏は、もともと武蔵七党の村山党の豪族で、桓武平氏である。平頼任が多摩郡村山郷を領して地名を称したのが村山党の最初で、その孫家範が入間郡金子郷に入って金子氏の祖となり、家範の子家忠は保元の乱や平治の乱で活躍した。伊予に足掛かりを得たのは源平の合戦後で、家忠が源義経の下で戦い、新居郷の地頭職を得たことによる。そして、鎌倉中期に家忠の孫広家が移住したことにより、伊予金子氏としての歴史が始まるのだが、その年代は建長年間(1249-56)の頃という。
 新居に入った広家は、新居郷を見渡せる山を自身と同じ金子山と名付け、拠点となる居館と詰城を築いた。従って城の築城年代も、入部すぐの建長年間ということになるのだが、これ以降の金子氏の活動は判然としない。ちなみに、日本の名字の多くは地名を元にしているが、金子氏の場合は逆に名字を元に金子と名付けている。このようなパターンもしばしば見られるので、このことを念頭に名字を調べていくとなかなか面白い。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての頃は、やはり金子氏の存在感は非常に薄いが、南北朝初期の頃に忠高と康広の兄弟がおり、尊氏に味方していたのが見える。しかし、それ以降、河野氏と細川氏の奪い合いとなった東予での活動は不明で、次の史料への登場は戦国時代まで待たなければならない。
 対立を続けた河野氏と細川氏は、河野通堯(通直)が和睦を試みる中で細川頼之の侵攻により康暦元年(1379)に討死した為、将軍足利義満の仲介を入れて嫡子通能(通義)が河野氏の本領にあたる中予を継ぎ、次男通之が細川頼之と親子の契りを結んで新居郡と宇摩郡を領し、河野家と細川家の和睦が成った。ただ、この2郡の実質的支配権は細川氏にあったようだ。通之は、通能の早世で家督を継いだ後、通能の子通久に家督を譲り、通之の系は庶家の予州家として続くのだが、いつの頃からか2郡は細川氏が支配するようになっている。また、この頃の金子氏の動向は詳らかではないが、恐らく汁椀の蓋だけを取替えるように、予州河野家から細川家に所属を変えつつ、椀の中身となる自らの勢力を暖めていたのだろう。
 この和睦以降も両家の争いは続いたのだが、河野家は、通之の子通元の時から宗家の予州家の間で数代に渡って家督争いが繰り返された為、次第に東予に関与する余力を失って行く。一方、細川家は管領として勢力を伸ばし、備中守護家や野州家が宇摩郡や新居郡に分郡守護などで勢力を持つなどした。その際、備中守護代だった石川氏の一族が現地支配の代官として赴任したと思われ、細川氏の没落により伊予石川氏が台頭することとなる。そして、金子氏はこの石川氏の下で勢力を大きく伸ばした。
展望台から見た細長い主郭 戦国中期の石川家当主通清は、阿波細川家の重臣三好氏が伸張すると婚姻を結び、連合して河野家と戦うなどの動きを見せている。その後、将軍となった足利義昭が、河野氏の働きかけで元亀元年(1570)に2郡を返還する御内書を出しているが、石川氏がそのまま領し続けたようだ。そして後期に入ると、一郡の領主から身を興した長宗我部元親が土佐を統一し、四国中央部と海岸沿いから阿波や伊予へ侵攻を始め、通清とその重臣金子元宅は、元親が阿波白地城を攻略して拠点化した天正6年(1578)の少し後から誼を通じたが、中小豪族の鉄則で、河野氏を通じて小早川隆景とも交流し、両面外交を図っていたという。
 元親が伊予経略をほぼ終えようとする頃、秀吉による四国征伐が開始される。この時、通清は既に亡く、その孫竹虎丸が元宅の後見を受けており、元宅が実質的な領主であった。元宅は諸将を集め、情勢を見れば秀吉に降るのが是であるが約を変じ強い方につくのは男子ではないとして、徹底抗戦を選んだ。そして、金子城に弟元春を、自らは高尾城で諸将の兵と共に籠城した。天正13年(1585)7月、毛利軍はまず元春が籠る金子城を力攻めにして落城としたが、この時には元宅を慕う領民のゲリラ作戦もあったという。金子城を落とした毛利軍は高尾城を囲み、激しい攻防が繰り広げられたが、やはり多勢に無勢、もはやこれまでと悟った元宅は城に火を放ち、城外に討って出て壮絶な討死を遂げた。これが俗に言う天正の陣である。
 金子城はこの落城で廃城となり、城を守った元春は退却時に踏みとどまって討死したとも、後に出家して慈眼寺を建て、一族や兵の菩提を弔ったともいう。また、元宅の一族は、土佐で人質となっていた系統が元親に保護され、後世に血脈を伝えたとされる。
 現在の城は滝の宮公園となっており、その頂上部に城跡があるが、車道があるので登るのが楽だった。行き止まりにある駐車場は峰の鞍部だったが、この部分では遺構は見られず、駐車場から緩やかに登る遊歩道を北へ行った場所が城跡らしい。城跡とは反対方向の、駐車場から南へ続く峰もなだらかで、防衛上、何らかの施設があってもいいのだが、こちらにも遺構らしき物は見当たらなかった。城跡には、東屋のあるやや四角い部分と、展望台と遊具が設置された細長い部分からなる、細長いひょうたん形の削平地があり、これが主郭である。ただ、間に堀切などの郭を分かつ構造物が見られなかったので、往時は同一の郭として機能していたのかもしれない。展望台からは眼下に新居浜市街が一望でき、堀の役割があったと思われる東川も確認できる。訪れた日が曇天で惜しかったが、山城らしく晴れた日には瀬戸内の素晴らしい眺望が広がっているのだろう。