吉田城 所在地 愛知県豊橋市
豊橋市役所北東すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/23
吉田城本丸と天守代わりだった鉄櫓 東三河の松平氏や、渥美半島の戸田氏に対する楔として、今川氏親が在郷の武士渡辺平内治の屋敷を接収し、家臣牧野成時ら宝飯郡の国人地侍に築かせた城。
 築城後に城主となった牧野氏は、東三河で成長した国人で、その出自は、讃岐もしくは阿波から移ってきた紀姓田口氏という説が一般的である。ただ、これ以外にも地生えの豪族とする説などがあるほか、自らは平氏や清和源氏を称していた。また、田口氏説でも、三河に来往した時期に複数の説があり、後に複数の家が並立したこともあって、非常にややこしい。確実に言えるのは、三河国宝飯郡牧野村がその本貫で、戦国時代にはこの吉田城の前身今橋城の牧野氏と、牛久保城の牧野氏が栄えた事である。
 この城の城主となった成時は、古伯や古白の入道名がよく知られた武将で、元々は三河守護一色氏の一族である一色時家の家臣であったが、その一色氏は、永享12年(1440)の守護一色義貫の追討と細川氏の守護就任によって衰退し、応仁の乱が終結する文明9年(1477)には、時家が東軍に寝返った家臣の波多野時政によって下克上されるに至った。その後、成時は明応2年(1493)の明応の政変では前将軍義材派であったようで、新将軍義澄派の時政を討って台頭し、後に今川家に属している。
 この一色氏の衰退は、牧野氏と同様、他の国人の勃興も促すこととなり、その中でも松平氏と戸田氏の勢力が大きく拡大した。この勢いに対抗すべく、永正2年(1505)に築かれたのが吉田城の前身今橋城である。ちょうどこの築城前後の2度、今川軍を率いた伊勢盛時(北条早雲)が三河に侵攻しており、松平氏に対する今川氏親の警戒は相当なものがあったようだ。ただ、城の地勢としては、それまでの牧野氏ら今川方の宝飯郡国人衆の各本拠よりも戸田氏の重要拠点二連木城に遥かに近く、松平領からは遠ざかる形になるので、二連木城に対する橋頭堡と松平氏と戸田氏の連携を分断する狙いが城にはあったのではないだろうか。
 このような背景で築城された城ではあったのだが、翌年には逆に今川軍の攻撃に晒され、11月に落城している。これには、戸田氏と古伯との領地争いがあり、戸田氏が今川氏に松平氏内通を讒訴した為であるという。また、異説として、これは松平長親による攻略という説もある。いずれにしろ、この今橋合戦で古伯は討死もしくは自刃し、今橋城は牧野氏の城ではなくなった。この後、前述の2度目の三河遠征の際に拠点となった事が見えるものの、城がどのような運用をされていたかはよくわからない。そして、永正16年(1519)には古伯の子成三が戸田氏を追って城を奪回したとも、大永年間(1521-28)初期頃にその弟信成が復帰したともいわれる。また、信成は、城の名を忌まわしに通じるとして、吉田へと変えたという。
 その後、信成は享禄2年(1529)もしくは天文元年(1532)に松平清康の攻撃を受け、城近傍の下地合戦で敗れて城も落城し、自刃した。城には、清康に内通した牧野一族の牧野成敏を始めとした城番が入ったが、清康が天文4年(1535)の守山崩れで横死すると、外様だった成敏のみが退去せずそのまま城を掌握し、城主となっている。更に、翌々年には戸田宣成が城を攻略し、戸田氏が渥美郡をほぼ掌握した。
 だが、この戸田氏の動きは今川氏の警戒を呼び、宣成は天文15年(1546)に今川氏に討伐されている。この合戦では、田原城や二連木城などの他の戸田氏は動かなかった為、宣成は戸田氏への警戒を解消する為に犠牲になったともいわれるが、戸田氏と積年の対立がある牧野氏ら宝飯郡領主の突き上げもあったのではないだろうか。
吉田城縄張図 戦後、今川義元は吉田城を三河支配の重要拠点と定め、しばらくは天野景泰が在番し、やがて伊東元実が城代を務め、後に小原鎮実に代わった。このほか、朝比奈俊元や朝比奈輝勝などの名も見え、複数の奉行衆が詰めていたようだ。一次史料の言継卿記には、弘治2年(1556)9月に伊藤(伊東)左近が留守とあり、鎮実への交替はこれ以降と見られる。
 永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で義元が信長に討たれると、翌年には家康が岡崎城で自立し、今川配下の三河国人衆も徐々に家康に服属や併呑されるなどして蚕食されていくが、鎮実は吉田城に留まって家康と対峙した。史料によって差異はあるが、この後、寝返った国人の人質を処刑し、野田城や二連木城を攻略したことなどが見える。しかし、永禄5年(1562)に今川家の駐留軍が相次いで敗れ、翌年に有力な今川方であった牧野保成も敗れて没すると、永禄8年(1565)には家康軍に包囲され、周囲の支城も落ちたことから鎮実は降伏し、今川家の三河支配は実質的に終焉した。
 戦後、家康は重臣酒井忠次を城に入れ、西三河の国人衆を指揮させた石川数正と並んで東三河の国人衆を指揮させており、城も重要な拠点と位置付けられたようだ。西の織田家と同盟していた徳川家は、今川家、後に武田家と対峙することになるが、その過程で元亀2年(1571)と天正3年(1575)に武田軍が城下まで押し寄せたという。ただ、元亀2年(1571)は武田信玄の上洛の途上で、上洛戦における遠江や三河の平定戦は天正3年の勝頼の時の事が混同されたとも言われており、研究が待たれる。
 天正18年(1590)の小田原の役後、家康は北条旧領の関東に移された為、吉田城には池田輝政が入部し、近世城郭化と縄張変更の大改修が施された。ただ、大改修であったが故に、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦翌年の加増転封までには完成に至らなかったという。池田氏の後には竹谷松平家清が入り、三河吉田藩が成立したが、要衝であった為、以降は親藩譜代による入れ替わりが激しかった。これは、吉田藩主になることが幕閣登用の一条件でもあった為ともいう。その後、深溝松平、忠重系の水野忠清、忠守系の水野忠善、小笠原、久世、牧野、大河内松平、本庄松平と続き、寛延2年(1749)に大河内松平の信復が戻って以降は安定し、維新まで続いている。
 維新後、城は明治4年に廃藩置県で兵部省が管轄し、同6年には失火によって城郭建築が焼失したが、城地自体は名古屋鎮台豊橋分営所を経て陸軍用地となり、第二次大戦後に豊橋公園として整備された。ちなみに、豊橋の名は、明治2年の版籍奉還を機に伊予吉田藩と紛らわしい為に豊橋に改名した事に始まっている。
 城の構造は、初期は現在の本丸東側にある金柑丸が本丸だったといわれ、微高地の丘陵に郭が連なる連郭式の城だったと推定されているという。酒井氏時代はこの縄張の延長であったが、池田氏時代の大改修で本丸から外郭までそれぞれ内側の郭を囲うように配置する半輪郭式へと改修された。詳しく見ると、豊川と朝倉川の合流点の少し西に川を背にして本丸を置き、東に金柑丸、南と西はは二ノ丸が置かれ、その周囲を三ノ丸、更に外側に外郭が囲うという巨大な城である。ただ、新城と古城の堀の跡が並行しており、縄張はある程度踏襲されたようだ。
旧本丸とされる金柑丸 現在の城跡は、市街地の都市公園となっており、東の三ノ丸や藩士屋敷の辺りは文化施設やスポーツ施設が建てられ、反対の西側は学校用地や市役所となっている。本丸や金柑丸、二ノ丸の南側部分が城跡の雰囲気を強く残す部分で、石垣や復元模擬櫓など、相応の雰囲気があった。特に本丸を囲う内堀や川側の高石垣は重厚で、往時は川手櫓と本丸の4棟の櫓が重なり合って見えていたことを想像すると、川際の堅城という情景がありありと思い浮かぶ城である。