東条城 所在地 愛知県西尾市
名鉄上横須賀駅北東1.8km県道318号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/24
三ノ丸から本丸の想像復元された櫓と城門 東条吉良氏の居城。
 東条吉良氏は、足利一門であるが、足利氏というのは、長子相続が家中であまり重要視されていなかったのか、嫡子ではない長子という存在が割に多く出てくる家で、吉良氏もそのようにして分かれた家である。初代義康の長子義清は庶子ではなかったようだが、討死した為に宗家は三男義兼が継ぎ、義清の系からは仁木氏や細川氏が出た。義兼の庶長子には義純がおり、義純の長男時兼が岩松氏の祖で、同じく三男の泰国が畠山氏の名跡を継いでいる。義兼の次子は桃井氏の祖義助で、宗家を継がず、やはり三男の義氏が家督を継いだ。この義氏の跡も次男の泰氏が継ぐのだが、庶長子には西条吉良氏との祖となる長氏がおり、その弟義継が東条吉良氏の祖である。ちなみに、泰氏にも庶長子の家氏がおり、家氏の系からは斯波氏や石橋氏が出た。また、惣領を継いだ三男頼氏の弟に石塔氏の祖頼茂、一色氏の祖公深がいる。
 東条城は、承久3年(1221)の承久の乱の際に義氏が三河守護となり、前述のように庶長子長氏を吉良荘の西の西条に、長氏の弟義継を吉良荘の東の東条に置いてそれぞれ支配させたが、その時に支配拠点として築かれたという。その後、鎌倉時代末期の尊氏の挙兵の際に両吉良氏は足利軍に投じ、尊氏の厚い信頼を得た。そして東条の吉良氏は、南朝勢力が強かった奥州を統括する為、義継の3代後の貞家の時に奥州管領として奥州に転じ、東条城や東条一帯は貞和3年(1347)頃に西条吉良氏の満義が支配するようになったという。
 この直後、中央で尊氏と弟直義の対立である観応の擾乱が観応元年(1350)から発生し、直義と近かった満義は当然のように直義方に味方して直義の死後も南朝方として尊氏方に抗したが、やがて文和4年(1355)までには幕府に帰順している。しかし、子満貞はその後も戦い続け、延文元年(1356)に満義が没した後もそのままであった為、これを危惧した被官らによって満貞の弟尊義が北朝方として立てられ、奥州に転じた東条吉良氏とは別系の東条吉良氏が成立した。この東条吉良氏に関しては、一般に義継系を前期東条吉良氏とし、新たに立てられた尊義系を後期東条吉良氏と呼ぶ。
 その後、延文5年(1360)頃には満貞も北朝に服し、尊義も別家を認められ、以降、戦国時代まで両家が並立した。ただ、史料があまり無い為に不明確ではあるが、東条吉良氏誕生の経緯もあって、両家はしばしば争ったという。その歪が噴出したのが応仁元年(1467)からの応仁の乱で、東条吉良氏5代義藤の室が山名宗全の娘、西条吉良氏の義真の室が細川氏の出という姻戚筋の事情も相まって、同年には義藤、次いで義真が三河へ下り、両家は三河で激突した。しかしながら、両家の戦いは史料にあまり出てこず、実際の戦況の推移は詳らかではない。
東条城縄張図 義藤の孫持広の頃になると、三河では松平清康が猛烈な勢いで領土を広げたが、清康の妹が室であった持広はその与党だったと思われ、清康横死後にその子広忠が叔父信定に追われた際には、持広が保護し、広忠の元服の際に一字を与えたとされる。また、広忠の救援を今川義元に依頼したともいわれ、周辺豪族と友好的な関係を築いていたようだ。また、対立の続く両吉良氏の弱体化を憂い、西条吉良氏から養嗣子として義安を迎えている。
 持広の没後、跡を継いだ義安は、今川氏が天文18年(1549)に安祥城の織田信広を攻撃した際に織田家に通じた為、戦後に駿府へ連れ去られ、義元の命で西条吉良氏の当主で義安の弟である義昭が東条吉良氏をも相続した。この後、弘治元年(1555)に西尾城が今川氏に叛いたと史料にあるが、それは義安なのか義昭なのかは諸説がある。また、この翌年、松平勢による吉良討伐の戦いが起こっているが、それは永禄3年(1560)の桶狭間の合戦翌年の話という説もあり、新たな史料の発掘待たれるところだろう。
 桶狭間の合戦で義元が討たれた後、広忠の子家康は自立を志向し、義昭は今川家に味方した。これより、吉良氏は翌年に松平勢に攻撃されているが、これが前述のように弘治2年の話なら義昭は反今川の立場となり、永禄4年なら親今川となる。いずれにしろ、東条城を防衛拠点とした義昭は、2月の合戦では松平勢を撃退し、4月の善明堤の合戦でも富永忠元の活躍で松平好景を討つなどしたが、9月には城近くの藤波畷の合戦で本多広孝によって忠元が討たれ、防戦の望みを失って降伏した。
 降伏した義昭は岡崎に移されたが、城の方がどうなっていたのかはよく分からない。2年後の永禄6年(1563)に蜂起した三河一向一揆では、一揆に参加した義昭が東条城を奪い、再び籠もったのだが、経緯を考えると城主という存在はおらず、城番程度が守っているに過ぎなかったのではないだろうか。こうして、東条城に復帰できた義昭であったが、翌年春には徳川軍に攻撃されて城が落城し、完全に没落した。義昭は戦後、しばらく三河に滞在していたらしいが、後に六角義賢を頼って近江に移り、芥川で死去したという。
 戦後、城は幼少の松平家忠に与えられてその本拠となり、家忠の叔父で家臣の松井忠次が後見した。しかし、家忠は子を成さぬまま26歳で天正9年(1581)に没してしまい、家が絶える事を惜しんだ家康が子忠吉に継がせている。しかし、忠吉は満1歳の幼児であった為に城には入らないまま翌年に沼津三枚橋城へ移され、城は廃城となった。ちなみに、現地には天正3年(1575)と天正18年(1590)の廃城年が説明板に書かれているが、天正3年は松井忠次が牧野城に入った年であり、家忠は健在であった為、間違いだろう。天正10年以降は城主が見られないが、家康の関東移封までは城が存続した可能性が残る為、天正18年というのは有り得ない話ではない。
 城は、矢崎川と炭焼川の合流点に近い丘陵を現在の県道の部分で断ち切って築城された城で、両川が堀の役目を果たし、藤波畷の名から解るように南から西にかけては沼田に囲まれていた。構造としては、方形に近い最高部の本丸を中心に、北西にやや下がって八幡社境内となっている二ノ丸、同じく西に二ノ丸とほぼ変わらない高さの三ノ丸を置き、西に帯郭を、本丸北東側下方にも方形の郭を持つ。全体で見ると、割とコンパクトで中世的な雰囲気が強く感じられる縄張である。ただ、これが安土桃山時代にこの形状であったというのが、三河の城郭史にとっては貴重なのだろう。
登城道沿いにある逆茂木を模した杭 訪れてみると、城跡は公園として非常に綺麗に整備され、本丸を全周する土塁や築城当時を模した櫓も建てられており、雰囲気は抜群である。遺構としても、二ノ丸、三ノ丸の明確な土塁、本丸と北東側の郭との切岸、北西側の三ノ丸の横矢掛など、見るべきものが多い。東の駐車場から徒歩で西側の登城口へ行くと、逆茂木を模した杭や冠木門があって、丁寧に整備、保存する姿勢が非常に感じられた。この日は、本丸では家族連れがピクニックをしていたが、熾烈な攻防があった城も今は非常に心地良い空間となっている。