末森城 所在地 愛知県名古屋市千種区
地下鉄覚王山駅東500m県道60号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2010/12/27
末森城址碑 末森城は、覚王山日泰寺東側の城山にある。城山には城山古墳群があり、周辺一帯は古くから勢力が培われる地勢であったようだが、城を築城したのは地生えの勢力ではなく、信長の父織田信秀であった。
 織田家はもともと越前の出で、室町時代に越前と尾張の守護だった斯波氏の守護代を務めた家系である。在京の守護から在地の守護代や国人へと権力が移行する下剋上の中で、越前では朝倉氏、尾張では織田氏が台頭してくるが、信秀はその織田家の嫡流ではなく、2つに分裂した宗家筋の織田家の一方、清洲織田家の家臣として奉行を務める分家であった。このような立場から身を興し、津島の経済力を背景に尾張半国を制するほどの実力を蓄えた信秀だったが、その生存中は清洲織田家の家臣という立場に終始したという。
 その信秀が、東の今川氏や松平氏に対する居城として天文17年(1548)に築いたのがこの城である。信秀は、前年の第二次小豆坂合戦で今川氏に敗れ、次いで三河安祥城をも失っており、東からの脅威に備える必要があった。その為、この末森城と弟信光の守る守山城で対抗しようとしたらしい。
 信秀は、築城数年の後に急死してしまうが、没年には諸説あり、一般的には天文20年(1551)のこととされる。そして、その死によって信長が織田家を継ぎ、末森城は信長の弟信勝(信行)が城主となった。信勝は、うつけ者と言われた信長と違い、品行方正で家臣の印象も良く、両者の母である土田御前の後押しもあった為、やがて信長に代わって織田家の当主に立てようという動きが家中に顕れ、更には信勝自身も、嫡流を示す弾正忠を称したり、信長の領地を押領したりした。この為、信長と信勝の対立が次第に深刻となり、ついに弘治2年(1556)には両者の軍勢が稲生で激突する。
末森城跡にある城山八幡宮の案内図 この戦いで、信勝勢は圧倒的な兵力を擁しながら重臣林通具を失うなど、あえなく信長勢に敗れてしまい、信勝は敗戦後に母を伴って信長に謝罪し、許された。だが、翌年には再び謀叛を企んだ為、病気と称した信長を見舞う為に訪れた清洲城で謀殺されてしまう。こうして主を失った城は、翌永禄元年(1558)に廃城となった。
 城は、当時末森山と呼ばれた標高43m、比高約20mの城山にあり、東西約200m、南北約160mの規模で、戦国中期の構造を色濃く残している。構造は、方形の本丸を中心としてして、西に長方形の二ノ丸を置き、北には三ノ丸と呼ぶべき第3の郭を設けていた。この3つの郭が主郭部分で、現在の地形から考えて高低差はほとんど無かったようだ。古絵図を見ると、本丸から三ノ丸相当の郭への虎口には丸馬出が設けられており、後の城郭施設の原型が見える。また、本丸南側にも大きな郭があるが、この部分はやや低く、最初の防衛ラインとなるのだろう。そして、これらの郭を区画する空堀が広く深く掘られていた。城自体の規模はそれほど大きなものではなく、北側の防御が手薄な感じはするものの、よくまとまっている城である。信秀が攻めの時期であった頃の古渡城がシンプルな縄張だったと考えられているのに対し、末森城は防御に重点が置かれた複雑な構造であり、築城技術の進歩はあるにしても、築城時期の信秀の状況がそのまま反映されているようで面白い。
 城は現在、本丸と三ノ丸相当の部分が城山八幡宮、二ノ丸が愛知学院大の敷地となっているが、名古屋市内の都市部の城としては非常によく旧状を残しており、空堀や土塁などの遺構がかなり貴重だ。訪れる前は市街地なので大して期待していなかったが、良い意味で裏切られた。街中でこれほどの堀切はなかなかお目に掛かれないが、八幡宮が遷座する前は信勝が勧進した白山神社があったらしいので、境内地として地形に改変が加えられなかった為、これだけの遺構が残ったのだろう。城の本丸跡が今の八幡宮の参道、三ノ丸相当の郭が八幡宮の本殿で、大きく深い空堀も歩いて散策することができ、市街地に在りながら古城の雰囲気が抜群である。ちなみに、この末森という名は、城山から窯跡が見つかっていることから、陶物を焼くところ、陶の森が転じたものらしい。