大野城 所在地 愛知県常滑市
名鉄西ノ口駅北東800m
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/24
城址碑と模擬櫓 知多半島を水野氏と二分した佐治氏の本拠で、宮山城とも呼ばれる。
 知多半島の佐治氏は、高望流桓武平氏とされる近江国甲賀の佐治氏の出といわれ、室町時代にその一流が足利一族である一色氏の家臣となったのが始まりという。一色氏は、南北朝時代の範光の時に三河守護に任ぜられ、明徳年間(1390-94)には子詮範がその対岸である知多半島の知多郡やその根元の海東郡の分郡守護をも獲得し、付近の大野湊や伊勢湾の海運を掌握する為に大野城を築いた。そして、その代官として、佐治氏が知多半島に入部したという。ただ、佐治氏の系図では入部した人物に諸説があり、為継や宗貞など複数の名が伝わっているなど、詳しい事跡は不明である。
 佐治氏がいつ頃自立したのかは不明だが、実態はともかく、名目的には恐らく応仁の乱が終結した文明10年(1478)の知多分郡守護の喪失が端緒と思われ、動乱の続く本国丹後の支配を重視した一色氏の方針が、影響力の低下をもたらしたのだろう。以降、佐治氏は戸田氏や水野氏と競いながら勢力を蓄え、当主名に諸説あるものの、一般には宗貞、為景(為貞)、信方(為興)と続いたと伝わっている。そして、為景の頃、佐治氏は勢力盛んな織田氏に接近し、嫡子信方は信長の妹お犬の方を室に迎え、信長の偏諱を受けた。この厚遇は、津島や熱田を掌握する織田氏にとって、出口にあたる伊勢湾に勢力を持つ佐治氏が非常に大事な勢力であったというのを物語っている。ただ、信方自身は、伊勢長島攻めの際の天正2年(1574)、もしくは元亀2年(1571)に22歳という若さで討死しており、子の一成が祖父為景に補佐されながら跡を継いだ。
大野城跡の城山公園概略図 一成は、後に将軍徳川秀忠の室となったお江与の最初の夫として有名だが、明確にそれを示す一次史料は残っていない。お江与の輿入れは、一般には、本能寺の変後に一成が仕えていた信雄と対立した秀吉による懐柔策といわれるが、浅井三姉妹を保護したのは信雄だったという説もあり、その説に従えば主君からの命による婚姻となる。また、後の佐治氏の伝承では、信方没後にお犬の方が織田家へ戻った為、新たな両家の婚姻として信長の命で幼児同士の婚姻が結ばれたともいう。
 秀吉と信雄が対決した天正12年(1584)の小牧長久手の合戦後、しばらくして一成は大野城を追われているが、家康の撤退に協力した事を秀吉が激怒したとも、信雄配下の同僚岡田重孝の秀吉への内通に連座したともいわれ、佐治氏の知多半島支配は終焉を迎えた。一成の領地は叔父織田長益に与えられたが、長益は水利の悪さを嫌ってすぐ北に大草城を築いて移り、大野城は佐治氏に同調するように廃城となっている。ただ、これには諸説があり、大野一帯が長益に与えられたのは、信方が討死した際や、同10年(1582)の本能寺の変後の信雄の尾張相続時とする史料が存在し、これに従えば廃城時期は遡ることになるだろう。現地の説明では、元亀2年の信方討死後、幼少の一成を後見する為に天正2年に長益が入城し、天正11年(1583)の一成の独立に伴って長益が大草城へ移ったとしていた。
 城は、前山川、矢田川を北の区切りとする平山城で、往時はもっと海が近い城だったと考えられる。現地に具体的な縄張図は無かったが、模擬天守のある場所が本丸で、そこより一段高い佐治神社を天守台もしくは櫓台とし、本丸北側下の遊具広場が二ノ丸、更にその北東の多目的広場が三ノ丸跡地ではないだろうか。ただ、詳細に見ると、本丸北側下には高土塁に挟まれた空堀とも帯郭ともつかない削平地があり、同じく北東に堀切らしき段差を挟んで小さな削平地や帯郭のような平場が見え、南東側にも遺構らしき地形が残っていた。地図を見ると、城の北側に城下、大門、北西に西ノ口、北東に屋敷という地名が見えており、往時は北側に大手を開き、前山川を水軍の船溜兼城下の運河として活用していた姿が浮かび上がってくる。
櫓台跡に祀られている佐治神社 公園化された上に模擬天守があるということで、遺構は破壊を受けているのではないかと思って訪問したが、模擬天守周辺を含めてかなり元の遺構が残されている良い城だった。特に本丸東から北側に掛けてが往時の雰囲気を強く持っており、散策していても面白い。また、模擬天守からの眺めも素晴らしく、セントレアから伊勢湾、矢田川を挟んで北に見える大草城の深い森など、障害物も無く見渡せ、天気の良さもあって非常に心地よかった。ちなみに、駐車場は住宅地の中に2ヶ所用意されており、車でも訪れやすい。