形原城 所在地 愛知県蒲郡市
名古屋鉄道西浦駅西650m
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/23
形原城城址碑と説明板 海に面した城で、稲生城ともいう。
 形原城には、築城に関しての伝説があり、方原師光として知られる源師光が、一帯の荘園の下司となった際、久安5年(1149)に居館を造り、それが形原城の前身になったとされる。師光は新羅三郎義光の孫で、甲斐源氏武田義清の子であるが、これ以降の動きは不詳で、城に関しての史料的な裏付けも無い。
 現在に残る城の形を整備したのは、実質的に松平氏を豪族として興した3代信光の四男、もしくは五男である与副が形原に封じられた際、築いた城であるという。その年代としては、文明12年(1480)との説があるが、その頃には既に老齢であった父信光の活動年代を考え、年代の下限をその3年前の応仁の乱終結までとする説もある。
 以後、形原松平氏は貞副、親忠と続くが、松平一族内では、信光の三男親忠の系統である安祥松平家が、信光の孫長親、長親の孫清康と、1代置きに勇将を輩出した為に分家から隆盛して惣領になったと見られ、親忠は清康に従った。しかし、清康は天文4年(1535)の守山崩れで横死し、戦後に清康の叔父信定が岡崎領を押領して清康の子広忠を追放するなど、松平一党は団結を欠くようになる。この頃、親忠も水野家から子家広の室を迎えるなど、勢力保持の為に独自の行動をしていたようだ。
 その後、広忠が今川家の後援を受けて岡崎城に復帰するのだが、形原松平家は竹谷松平家と同様に松平家臣ではなく三河国人衆として扱われたようで、広忠が子竹千代(家康)を人質として送ったように、家広の妻が今川氏に送られている。この時の家広の室は、前述の水野氏出身の於丈の方ではなく継室で、於丈の方は水野信元が織田家に転じた際に広忠の室於大の方と同様に離縁されたのだが、この辺りも、形原松平氏が今川氏に対して慮る立場、つまり陪臣ではなく直臣に近い立場であったことを示しているだろうか。ただ、竹千代は今川氏の本拠である駿府に住んで教育や正室の血統などで優遇されている面が多かったが、家広の妻は今川氏の東三河の支配拠点であった吉田城に留め置かれた。この辺りは、家格の差が如実に表れている。
最高部に建つ古城稲荷社の社殿 永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後、当主の今川義元が討たれた事で今川家は混乱し、機と見た家康が自立すると、竹谷松平家とともに家広は家康に従い、これに激怒した義元の子氏真の命で吉田城代小原鎮実が家広の妻ら東三河諸氏の人質13人を処刑した。処刑されたのは家広の子左近であったともいわれるが、この人質達が葬られた場所は、現在は十三本塚と呼ばれている。
 この後、形原松平家は方針を変えずに家康に従い続け、家広の子家忠は永禄8年(1565)の吉田城攻略戦でも活躍し、東三河衆を統率した酒井忠次の指揮に属した。形原城には、家忠の子家信が天正18年(1590)の家康の関東移封に従って上総五井に移るまで在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を経て、その翌年には再び形原に戻っている。ただ、その間の10年間については、形原城がどうなっていたかというのはよく分からなかった。その後、元和4年(1618)に家信は5千石を加増され、形原藩1万石が成立したが、早くもその翌年に摂津高槻に移封となり、形原城は廃城となっている。
 城は、西浦半島へ続く丘陵の一部が岬状に海に突き出した地形を利用して築城された城で、今は直下の海が埋め立てられているが、そもそもは海を防御力とする城であった。伝承では、築城伝説を持つ方原師光が東古城の部分に居館を築造し、与副入部の際に北古城、南古城にも城が築かれたという。しかし、廃城時期が近世に入ってすぐということもあって、北古城と南古城は完全に住宅地等になってしまっており、全体の構造は非常に掴みにくくなっている。
形原城全景 現在の形原城は、主郭部分だった東古城の高台が古城稲荷社の境内となっており、社殿がある一ノ郭と参道がある二ノ郭は旧状をよく残していた。往時は、この高台の崖下を波が洗っていたといい、三河湾の最奥部を遠望することができる。地形としては、東古城の稲荷社が一段高く、次に南古城、更に下がって北古城という感じだろうか。古城稲荷社の境内には、城址碑と説明板、家信を身を呈して護ったというお妙の塚があり、範囲は小さいながらも古城という雰囲気は感じられた。