犬山城 所在地 愛知県犬山市
名鉄犬山駅北西1.1km
区分 平山城
最終訪問日 1996/8/25
犬山城天守(パンフレットより) 木曽川の断崖上にある平山城で、国宝五城の内のひとつ。
 犬山城周辺では、文明元年(1469)に斯波氏の家臣だった織田広近が、犬山城の南1kmほどのところに木ノ下城を築いている。以後の木ノ下城は、代々織田氏一門が城主であった。
 犬山城の歴史は天文6年(1537)からで、美濃の斎藤氏への備えとして、織田信秀の弟信康が犬山城を築城して木ノ下城から居を移し、城主になったのが最初という。ただ、それ以前にも砦のようなものはあったらしい。
 この信康は、信秀に従って出陣した美濃稲葉山城攻めで落命した為、子の信清が跡を継いで城主となった。信清は、従兄弟の信長と結び、協力して上四郡の守護代である岩倉織田家を攻略したが、後に信長と対立し、永禄7年(1564)に信長の攻撃によって城は落ち、信清は甲斐へ落ち延びたという。その後、元亀元年(1570)に池田恒興、天正9年(1581)には織田信房が城主となり、本能寺の変後は三法師の後見として清洲城に入った織田信雄の属城となった。
 その信雄は、父信長亡き後、秀吉が着々と勢力を拡大しているのを見て対立し、家康と組んで天正12年(1584)に小牧長久手の戦いを引き起こすが、犬山城はこの時、かつての城主であった池田恒興に攻略されている。戦後は再び信雄に城が戻されたが、天正18年(1590)に信雄が配流され、近江八幡城主豊臣秀次の属城を経て、文禄4年(1595)に石川光吉(貞清)が入部し、現在の天守を築いた。
 しかし、光吉の治世は短く、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となり、戦後は松平忠吉が尾張を領した為、その附家老となった小笠原吉次が犬山城に入っている。吉次は、城を近世城郭として完成させるとともに、城下を整備して今の犬山市街の原型を整えたという。忠吉が慶長12年(1607)に病没すると、尾張は家康の九男義直に与えられ、犬山城にはその附家老として平岩親吉が入り、平岩家が嗣子無く断絶した後は、同じく尾張藩附家老の成瀬家が3万5千石で城主となって明治維新まで続いた。
 維新後、成瀬家は正式に犬山藩として独立したものの、明治4年には早くも廃藩置県で廃城となってしまう。この時、城は一旦政府所有となるが、幸運にも天守閣などは取り壊されず、辛うじて城郭の姿形を残すことができた。そして、明治24年の濃尾地震で倒壊した天守閣、付櫓、城門を修理する約束で再び成瀬家に譲られ、唯一の個人所有の城となったのだが、やはり個人での維持は難しく、2004年からは財団法人犬山城白帝文庫の管理となっている。
 城の構造は、背後を木曽川の激流と40mの断崖に任せ、本丸から南へ階段を下るように杉ノ丸以下4郭が並ぶ梯格式の城となっており、中国の白帝城に喩えられるように、川の流れに先に孤高の姿を現しているような佇まいを持つ。天守は三層四階の古風なものであるが、3階部分の破風や4階部分の回廊部分はやや装飾的で、泰平の成瀬氏時代の増築らしい。
 城跡自体は、本丸付近を残すだけで周辺からの標高もさほど高くはない平山城だが、天守閣からの眺望は、昔と変わらず眼下に木曽川の激流を控え、周囲一帯を広く見渡せる高さを持っており、往時の威勢を偲ぶことができる。