東端城 所在地 愛知県安城市
名鉄北新川駅東2.9km県道45号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/24
広い削平地を持つ城山稲荷社 現地説明碑には、天正8年(1580)に長田尚勝によって築かれた城とあるが、安城市では、松平信忠が大浜称名寺に禁制を与えた文亀3年(1503)と同じ頃に整備されたとしている。城は、信忠の居した安祥城と大浜の間にある為、その頃に中継拠点として城の原型が形造られ、尚勝が再築したと考えるのが妥当な所だろうか。また、当時は油ヶ淵がまだ無く、北浦という海の入江だった事にも注意が必要で、海を通じて大浜と接続が容易であったのだろう。
 城を支配した長田氏は、桓武平氏流で、その祖となる平致頼は、高望王の子の平良兼の孫とも、高望王の子もしくは孫という平良正の子ともいわれ、藤原道長と同世代である。致頼は、勇猛な武将であったが、位階は従五位に過ぎず、子孫は他の平氏と同様に地方に活を求めて在地豪族化し、尾張平氏とも称された。この子孫が、平治元年(1160.1)の平治の乱後に東国へ落ちる源義朝を騙し討ちにした知多郡野間の長田忠致である。そして、この忠致に不義を説いた兄弟の親致が、事件から三河国大浜郷棚尾へ隠棲し、棚尾の長田氏になったという。ただ、これは系図に示された一般的な概説に過ぎず、詳しく見てみると、尚勝の祖父広正は大橋氏からの養子といい、更にその養父政広の母が大江氏の出身というだけでなく、長田氏自体に大江氏流長田氏の説があるなど、かなりややこしい。後に家康の命で大江姓を称したのもこの辺りに由来するのだが、本当はどういう系統であったのかというのを追うのは難しいだろう。
城山稲荷社の境内にある事跡碑 長田氏は、大永年間(1521-28)頃に棚尾から大浜へ移ったと伝わっている事から、それは尚勝の祖父広正の頃だったと思われる。戦国時代初期の大浜は、三河湾有数の積み出し港で、畠山一族の和田氏の勢力下にあったが、やがて冒頭のように安祥松平氏が大浜を支配した。長田氏の大浜進出は、安祥松平氏が支配して以降であり、尚且つ信忠が大浜に隠退した頃と同時期である為、恐らくは松平氏の後援があったのだろう。前述の広正が養子という話も、時期的に見て、松平氏が影響力を行使して親松平の武将を跡継ぎに据えたという可能性も考えられ無くは無い。
 広正の子が重元で、重元は家康の父広忠の頃から仕え、松平氏の大浜の代官という立場があったものと思われる。そして、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、伊賀越えをしてきた家康を大浜から出迎えたという。また、重元は、家康の命で天正4年(1576)に大浜羽城を築いて移っており、前述のように嫡子尚勝にはこの東端城を築かせている。両城で水運をしっかり押さえる目的があったのだろう。
 一方、次男の直勝は、最初は家康の嫡子信康に近侍していたが、信康が自刃に追い込まれた為に一度蟄居している。後に家康に召し出されると、姓を永井に改め、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では池田恒興を討つという大功を立てた。これにより、兄から引き継ぐように東端城主となっている。
城山稲荷社と念空寺側の堀跡 この後の直勝は、安城市の史料では天正18年(1590)の家康の関東移封に従わずにこの地に残ったとされるが、相模と上総で5千石を得ていたとする史料もあり、いくつかの説があるようだ。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、やはり7千石と1万石の説があるものの、東端城主であったのは確実なようで、やがて大阪の陣の功で元和2年(1616)に上野国小幡1万7千石、翌年に常陸国笠間3万2千石へ加増転封となった。これに伴い、主の居なくなった東端城は廃城になったという。
 城は、当時は北浦と呼ばれた海の入り江近くの高台に立地していた。現地に縄張図が無かった為、詳しい縄張は不明だが、北浦が油ヶ淵になる前は海に臨む半島型の丘陵になっていたようで、今の城稲荷社の境内となっている主郭から北へ連郭式に連なる城だったようだ。城の東西には今も細流が残っているが、ここに海が入り込んでいたか、細流との汽水域になっていたかで、堀の役割を果たしていたと思われる。
 現地を散策してみるとよく分かるが、境内となっている台形の主郭部の周囲には低くなった土塁と窪み程度になった空堀が廻らされていたほか、隣の念空寺との間の道は明らかに空堀跡であり、思ったよりも遺構と確認できる部分が多い。特に、主郭部西北側に帯郭と見られる地形が残っており、堀跡の細流とで、いかにも城跡という雰囲気が漂っていた。また、隣の念空寺は構造的に確実に城域であるが、その北側にも、もしかすると何か痕跡はあるのかもしれない。城跡としては、一見あっさりした感じに見えるが、部分部分に明らかな遺構があり、当時を想像しながら散策するのが楽しく、干拓されて眼前に広がる田園となった今の風景もなかなか心地よい城である。