羽豆崎城 所在地 愛知県南知多町
南知多町役場南東4.4km
区分 平山城・海城
最終訪問日 2015/5/24
岬にある羽豆崎城址碑 羽豆岬にある城。読みは、師崎がザキと濁る為、同様にハズザキと濁って読むのだろう。
 羽豆崎城は熱田神宮大宮司家の千秋氏によって南北朝時代に築かれた。地形を見ても解るように、陸地の繋がりよりも水運の要となる城で、熱田神宮の門前町にある熱田湊を掌握していた千秋氏にとって、知多半島の先端というのは非常に大事な場所だったのだろう。また、日本武尊の東征の神話には、後の熱田神宮大宮司尾張氏の祖となる尾張国造乎止与命の子で、熱田神宮に祀られている建稲種命が副将として参加し、この地の民を率いたと伝えられており、かなり古い時代から尾張氏及び熱田神宮の勢力圏であったと思われる。
 前述のように、熱田神宮大宮司は、元々は尾張国造の裔である尾張氏が世襲していた。だが、平安時代末期に、藤原南家流の藤原季兼と尾張氏の出身の室との間に生まれた季範へ、尾張員職から託宣として大宮司職が譲られた為、以降は季範の子孫が世襲する事となる。これに従い、尾張氏は権宮司に退く事となったのだが、これは、すでに一勢力となっていた尾張氏による中央政権とのパイプ作りだったのだろう。季範は、期待通りに中央貴族との繋がりを作ったほか、娘を源義朝の正室にもしている。そして、この正室由良御前が頼朝を産んだことで、源氏とも繋がりを強くし、武士化していった。また、季範の孫は足利氏の初代義康の室にもなっており、足利氏とも縁を持っている。
 季範以降、子孫の幾流かが大宮司職に就いたが、憲朝の頃に社領のひとつ三河国設楽郡千秋の地名を名字として千秋を称し、後に憲朝の系統が大宮司を継承した。また、歴代当主は在京することが多かったという。元弘元年(1331)より始まる元弘の乱では、大宮司であった親昌が後醍醐天皇に味方し、建武の新政を経て南北朝時代になった後もそのまま南朝に属した。この羽豆崎城を築いたのは親昌かその子もしくは甥の昌能とされ、南北朝時代の初期頃の事だったとされる。また、別説として、千秋季氏が築いたともいう。
 南朝方の千秋氏が、この羽豆岬を重視したのには理由があった。海に突き出した岬というのは、もちろん水運を扼すには非常に大事な場所であるが、もうひとつの因として、鎌倉時代の三河国は足利氏が守護を務めており、吉良氏や細川氏、一色氏などの一門を入部させて勢力を扶養し、必然的に三河に北朝方の勢力が多かったことが挙げられる。つまり、東海の陸路は東西の連絡が取り辛かった。その為、必然的に海路で東海と伊勢、吉野を結ぶ事となり、その中継地として重要視されたのである。こうして、城は中継拠点として利用され、義良親王や脇屋義助といった南朝方の巨魁も一時滞在したという。
 南北朝合一後、千秋氏の勢力は後退したようで、三河守護一色氏の家臣として知多半島に入部し、後に水野氏と知多半島を二分したという佐治氏が城を支配した。佐治氏も、水軍を擁して伊勢湾を掌握した勢力であり、千秋氏と同様に知多半島の先端に拠点を置くことはかなり重要だったはずである。その後、佐治為貞の子で千賀氏に入嗣した千賀重親が城主となり、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦よりも前に松平氏に属したという。重親は以降、師崎水軍を率いて徳川水軍の一将となり、家康の関東移封後は徳川御船手四人衆に数えられた。
 家康移封後の城の様子は不明だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、重親が伊勢湾監視の役目を帯びて羽豆崎城に派遣されており、九鬼水軍と対決している。戦後、重親はそのままこの地を領し、後に尾張藩に仕えたが、城は慶長7年(1602)に師崎に千賀屋敷が造られた際に解体され、資材が転用されたという。
羽豆城跡最高部の展望台から師崎の眺め 城は、師崎の港の南端の岩場の上にあり、羽豆神社とその北の展望台一帯がそうである。最高部は展望台の場所で、すぐ近くに城址碑があり、この辺りが往時の本丸なのだろう。一段下がって羽豆神社の社があり、その削平地が次段かと思われる。ただ、往時の遺構らしきものは残念ながら何もない。水軍の城であっただけに、居住と遠望が城の主な役割で、複雑な防御設備や大規模な土木工事はあまり無かったと思われる。また、麓の岩場には船溜などもあったはずだが、麓は護岸工事で遊歩道が整備され、その痕跡は見付からなかった。