古渡城 所在地 愛知県名古屋市中区
地下鉄東別院駅西300m
区分 平城
最終訪問日 2010/12/27
東本願寺名古屋別院の境内にある古渡城址碑 信長の父織田信秀が自らの居城として築いた城。現地案内板には天文3年(1534)築城とあるが、同8年(1539)の築城説もある。ただし、どちらの説でも築城と同時に本拠にしたというのは変わらない。
 織田家は、もともとは越前の出で、南北朝時代の斯波氏の越前入部後にその家臣となり、有力家臣として守護代を務めるようになった。斯波氏は越前のほか、尾張と遠江の守護でもあったことから、織田氏は斯波氏配下の在地有力家臣の甲斐氏、朝倉氏と共に、それぞれ尾張、遠江、越前で勢力を拡大していく。こような下剋上の荒波の中、戦国期まで残ったのは朝倉氏と織田氏であるが、朝倉氏が嫡流であるのに対し、信秀の家系は織田氏の嫡流ではない。2つに分裂した宗家筋の守護代織田家の一方、清洲織田家の家臣として奉行を務める分家の出である。つまり、尾張守護斯波氏に対する守護代織田家の下剋上があり、更に織田本宗家に対する分家の下剋上という2段階、守護代家同士の戦いを嫡流に対する分家の台頭と捉えるなら3段階の権力闘争を経ての信秀の台頭であった。
 信秀の家系である弾正忠織田家は、信秀の父信定の時に津島を掌握し、その経済力を基に雄飛していくのだが、その根拠地勝幡城があるのは尾張西部で、古渡城周辺を含む尾張中央部への進出は、信秀が天文元年(1532)に今川氏豊の那古屋城を奪取してからとされる。しかし、この出来事は同7年(1538)説もあり、これが古渡城の築城時期に2説ある理由らしい。いずれにしても、那古屋城を信長に譲って古渡城を築いたということなのだが、近年は後者の説が有力になってきているようだ。氏豊の年齢などを考えると、前者の説では城を奪った際の逸話が成り立ちにくく、個人的には納得できる。しかし、信長の元服を機に信秀が城を譲って移ったという説もあり、史実が実際どうであったかというのは、もう少し研究を待たないといけないのかもしれない。
 築城時期は置くとして、信秀は、この城を本拠としていた天文年間(1532-55)の前期頃、猛烈に領土を拡大している。同4年(1535)に隣国三河の松平清康が横死した森山崩れの際には、その攻撃対象だった守山城には弟信光を既に置いていたほか、その数年後には犬山城に弟信康を配置するなど、一門で尾張国内の要所を押さえ、実質的に尾張一の実力者となった。その一方で、信秀の生存中はあくまで清洲織田家の家臣という立場に終始したという。また、国外に対しては、清康の死を好機として反転攻勢に転じ、後に安祥城まで進出、第1次小豆坂の合戦で今川氏にも勝利している。
 しかし、天文年間の後半になると、美濃の混乱に介入して大垣城を奪ったものの、次第に雲行きが怪しくなり、同16年(1547)の稲葉山城攻略失敗で多大な損害を被ったほか、翌年には第2次小豆坂の合戦で今川・松平連合軍に敗れ、次いで安祥城をも失ってしまう。そして、東からの脅威に対応するように、天文17年(1548)に末森城を築いて移った為、この城は廃城となった。
 城は、東西140m、南北100mの平城で、二重の堀を備えていたとは言え、規模はそれほど大きくなかったようだ。恐らくは、居館という呼び方が相応しい城だったと思われる。ただ、周囲は熱田台地というやや高くなった地形の西南端にあたり、庄内川流域の平野部を見渡せるほか、当時の守護所であった清洲城も8kmほどの距離であることから見渡せたはずで、戦略的要地だったのは間違いないだろう。縄張りに関しては、この城から移った末森城が空堀を複雑に廻らせた防御力のある構造なのに対し、この城は規模も大きくない平城で、攻勢に出ていた当時の信秀の勢いを表すように城に籠って防戦という戦術色が薄く、築城の背景を考えるとなかなか面白い。
 古渡城は廃城後、特に他の武将に利用されることもなく放置されたようだが、江戸時代、一如上人によって元禄3年(1690)に開かれた名古屋御坊の敷地として、翌年に尾張藩から東本願寺へ寄進された。これが今の通称東別院で、明治以降は名古屋本願寺、名古屋管刹、そして今の正式名称である名古屋別院と名を変えつつも、同じ場所に在り続けている。従って、当然ながら城の遺構というのはほぼ無くなっているわけだが、城の堀跡を利用したというすぐ横の下茶屋公園の池が辛うじて痕跡と言えるだろうか。ただ、こちらも寺院建立の際に作庭された池泉である為、あくまで利用したというに過ぎず、城跡の面影があるとはちょっと言い難い。ちなみに、この公園の説明文に、幕末の史料に天守云々という文言が記入されているとあるが、時代的に天守はありえないので櫓の事だろう。堀端なので、防御用の櫓があって当然である。