熱田神宮
所在地  愛知県名古屋市区
名古屋鉄道神宮前駅西すぐ国道19号線沿い
最終訪問日  2010/12/27
熱田神宮拝殿 古代より熱田台地に鎮座した神社で、その創建は記紀の時代というから、気の遠くなるような歴史がある。祭神は熱田大神で、御神体は草薙剣こと天叢雲剣。
 天叢雲剣は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際にその尾から出てきたという神剣で、天孫降臨の時に天照大神からニニギノミコトに渡され、やがて天皇家に伝わる武の象徴になったという。
 時代は下り、第12代景行天皇の治世、景行天皇の皇子日本武尊が東征の際に伊勢神宮から天叢雲剣を拝受し、駿河で火攻めを受けた時にこの剣で草を薙ぎ払って難を避けたことから、草薙剣の名が与えられた。日本武尊はこの東征の後、尾張で尾張国造の娘宮簀媛命と結婚したが、剣を置いたまま遠征に赴いた近江国伊吹山で病を得て、今の三重県で没してしまう。こうして残された宮簀媛命は、日本武尊の遺志を重んじ、同じく残された天叢雲剣を熱田の地に祀った。これが熱田神宮の創始であり、日本書紀によれば景行天皇43年(113)のことという。
 神宮創建以来、ほぼ遷されることの無い御神体であるが、過去には2度だけ外部に持ち出されている。1度目は天智天皇7年(668)の出来事で、新羅の僧道行が剣を盗み出し、新羅に持ち帰ろうとしたが、嵐で渡る事ができなかったというもの。剣は無事に回収されたが、そのまま宮中に留め置かれ、朱鳥元年(686)に天武天皇の病が神剣の祟りであるとされたことから神宮に戻された。2度目は太平洋戦争末期から終戦後で、最初は空襲からの疎開計画であったが、結局戦争中には実施されず、終戦後にアメリカ軍による接収や破壊を免れる目的で計画が実行され、岐阜県の水無神社へ約1ヶ月間遷されている。ただし、元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いの際、平清盛の正室二位の尼と共に海中に沈んだという説もあり、現在の御神体が古代から存在した本物なのかどうかはよく分からない。これに関しては、御神体が世に出る可能性はほぼ無いので、その真偽もほぼ永遠に闇の中ということでもあるのだが、神道の性質を考えると仕方のないことだろう。
 創建以降、神宮の大宮司は尾張国造の子孫である尾張氏であったが、平安時代以降は藤原氏やその子孫千秋氏が大宮司を務め、尾張氏は権宮司となっていた。ちなみに、かの有名な永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際に熱田神宮で戦勝祈願をした織田信長は、その家中に千秋氏を抱えているほか、熱田神宮に出した書状に権宮司尾張仲安という名も出てくるなど、熱田神宮と繋がりが深い。また、桶狭間の合戦後にお礼として寄進した塀は、信長塀として今も残っている。本願寺や比叡山を始め、寺や神社といった宗教勢力は権力を持ちやすく、諏訪氏や阿蘇氏のように全国で武士化する宮司も少なくなかったが、そのような勢力を徹底的に弾圧した信長は、一般のイメージとは裏腹に熱田神宮とは友好的であった。無宗教者として見られがちな信長であるが、熱田神宮との関係を考えると違う側面が見えてくるのは面白い。
 熱田神宮を訪れて驚くのは、電車や多くの車が行き交う都会の喧騒の中に在りながら今も巨大な境内を有し、周囲と境内との間に恐ろしいくらいの空気の差があるところだろう。境内の厳かな空気は、俗世から離れて斎(ユマワ)るという言葉が相応しく、まさに熱田の杜である。森ではなく、祭祀を表す示偏の杜なのだ。熱田神宮を見れば、神社にとって大事なのは社殿や付属する建物ではなく、静寂さと厳かさをもたらす杜なのだということがよく解る。この杜というものは、日本人の持つ感性に働きかけ、敬い奉るべきものだと感じさせる何事かの力があるのかもしれない。
 熱田神宮には宝物殿がある。大きな神社にはほぼ必ず宝物殿があるが、熱田神宮の宝物殿にもその歴史の中で寄贈や奉納された品々が約6千点も収蔵されており、御神体が剣であることから、中でも刀剣類が多いらしい。しかし、残念ながら、訪れた日は年末の休館日であった為、展示品を見ることができなかった。熱田神宮へ行く楽しみの一つであったのだが、それはまた次の機会にするとしよう。